Flaneur, Rhum & Pop Culture
拝啓、城龍=ジョン・ローン様
[ZIPANGU NEWS vol.96]より
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 1990年の春の頃、前年の暮れに崩壊したベルリンの壁のことが気になって仕方なかったが、はやる気を押さえつつ、さして上達のしない週一回の茶道の稽古と英会話を繰り返していた。後年パリからコルシカ島に移り住んで、レジオンドヌール勲章を受けたり、フランス政府公式の画家に任命された松井守男作品展やら、友人だったハナヱモリのトップデザイナーの故岸本一彦が立ち上げた新ブランド、リブ・リブルが帝国ホテルでショーを敢行したり、メンズ・ビギの今西裕次がサッポロビール工場跡の巨大な洞窟、恵比寿ファクトリーで、前衛的なファッションショーを繰り広げたり、まだまだバブルがはじけたとか、或いははじける予兆など微塵も感じないで、それらを面白がって体験していた。 4月12日、監督の候孝賢(ホウ・シャオシェン)を同行して映画『非情城市』のプレヴューが、鳴り物入りで台湾からやって来た。映画の製作者でもあったぴあの矢内廣に会場の青山スパイラルホールで監督を紹介された。台湾の歴史大河ドラマだったが、第二次大戦後、大陸中国から渡ってきた外省人と呼ばれる蒋介石一派というか国民党というか多数の漢民族と、元々の本省人との間にある生活習慣や考え方、決定的な言語の違いと政治の争いは複雑怪奇で、それら矛盾がむき出しになって、ゆったりとした時間の流れの中で描かれて、写真が丁寧で長さを感じさせない磁力のある映画だった。
 そのわずか4日後の16日、今度は柳町光男監督がジョン・ローンを主演に撮った、香港を舞台にした合作映画『チャイナシャドー』のプレビューが、有楽町の日劇東宝であった。西木正明の小説「蛇頭(ジャトウ)=スネークヘッド」を原作にしていた。当時実際蛇頭という中国やくざは日本に進出してきて、日本のヤクザとちょくちょくいざこざを起こしていた。映画は残念ながらちょっと荒唐無稽すぎて戴けなかったが、カメラの栗田豊通と音楽の清水靖晃は冴えていた。共産党中国から国境の川を越えて香港に逃げて来るジョン・ローン扮する暗黒世界の男の幼少時代のシーンに、実際に孤児で京劇に売られた過去を持つ当人をダブルイメージした。ジョン・ローンと言えば当時、マイケル・チミノ監督の『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(85)で、主役のミッキー・ロークを完全に食って存在感を示し、続いてベルナルド・ベルトリッチ監督の大作『ラスト・エンペラー』では主役の皇帝溥儀を演じて、その演技と美貌は圧倒的なオーラを放っていた。試写上映を終えた時、日本側のプロデューサーだった井関惺が俺を見つけて近づいて来て言った。「これからジョン・ローンや監督を連れて『ロマーニッシェス・カフェ』に行こうと思っているけど良い?」俺は一瞬「えっ?」となって店にすぐさま準備の電話を入れたのだが、そういう流れになって、もっと吃驚して躊躇したのが連れの従姉で俳人の大木あまりだった。その訳を今から書こうと思う。
 <鼻に皺ある恋猫となりにけり>の大木あまりは、去年の第五句集「星涼」(ふらんす堂刊)で読売文学賞詩歌俳句賞を受賞した畏怖すべき人であるが、当時彼女は詩画集『風を聴く木』を出していて、その本の扉には何と<TO JOHN LONE>と献呈の辞がデディケイトされていた。勿論勝手に彼女がしたことだ。俺はそのことを知っていて、しかも店内の本棚にその本はあった。「ねえねえ、雄高ちゃん、どうしよう」「何?あまりちゃん」「もっと服を選んで着れば良かった」「そんなこと、もう遅いよ」と言って、嫌がる彼女を振り切って、本を棚から抜き出しジョン・ローンに見せた。こんな時の店の主人の特権行為はある。吃驚したジョン・ローンにあの人だと指をさすと、当事者二人は二言三言言葉を交わし、大木あまりは生涯一の興奮と恥ずかしさで猫のように埋まった。それから「電話貸して」と言った。句集「星涼」と同じ出版社ふらんす堂は今は仙川に移ったが、その頃は三鷹にあった。
 深夜2時頃だったろうか、ふらんす堂の山岡喜美子が30冊ほどの本を抱えて店に到着した。コートの下はパジャマだったと記憶している。あまりとジョンが一冊一冊にサインをした本を、パジャマの女社長が皆に配っていったのだった。やっとホッとしたらしい大木あまりが又言った「こんなことになるんだったら、違う服があったのに!」何を言っているのか今更、深夜、三鷹から西麻布までタクシーで呼びだした社主がパジャマだというのに。