Flaneur, Rhum & Pop Culture
破れた山河に谺す「戦争は知らない」
[ZIPANGU NEWS vol.89]より
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 去る6月18日に相模原のメイプルホールで、カルメン・マキのコンサートを2年振りに手掛けた。100人弱のこじんまりした私設ホールだが、なかなかやり心地よい場所で5回目のコンサート企画だった。演奏する方も心地よかったはずだ。
 惹句に曰く。“A・C・クラークの『2001年宇宙の旅』のモノリスが生んだヒトになった最初の類人猿は、<月を見る者>と名付けられた。兎女のカルメン・マキは、そんな月と地球を飛び跳ねているのです”と。2009年に歌手40周年記念として、『ペルソナ』というアルバムを当誌発行のジパング・レーベルから筆者プロデュースでリリースした後も、ライブ活動をエネルギッシュに続ける彼女を俺はそう表した。2年前の『ペルソナ』にはプロデューサーのたっての要求だった曲「戦争は知らない」が入っている。この曲については、俺が説明するより当時のライナーノーツにマキ自身が書いた曲解説がある。
 「『時には母のない子のように』と双璧を成すとも言うべき私の代表曲。(中略)寺山修司作詞、加藤ひろし作曲の名曲である。レコーディング化はこれで3回目だが、今作では私のア・カペラから始まり、つづいて黒田(京子)さんの、子供時代のはかなくも甘い郷愁を漂わせるピアノが入り、間奏部では私がアラブでもインドでもトルコでもない私のルーツであるユダヤで、と我が儘なお願いをしてしまった太田(恵資)さんのヴォイスが聴ける。それはこの曲の核心をつくといってもよい重要な役割をはたして、結果、感動的な仕上がりとなった」と自身の感想だった。
 その「戦争は知らない」を、タイトル曲「ペルソナ」と共にメイプルホールで2年振りに歌った。アルバム・プロデューサーだった俺への礼の尽くしように思えたが、やはりア・カペラから始まった。清水一登がピアノの弦を指ではじき不安を提示、佐藤芳明がアコーディオンの音とは思えない音で震える魂を表し、西島徹が弦バスで暗雲を呼び込む。3月11日以降ならではの未曾有の日本列島の山野に向かった、聴くものを微動だにさせない初めて味わう「戦争は知らない」だった。
 話は飛ぶが当欄で今1989年のことを書いているが、その締めくくりのことだ。11月になって俺の心のふるさとだと自称していたベルリンの壁が壊れて、世界を冷戦下に縛り付けていた東西の壁が壊れた。悪しき連続だった激動の89年もやっと<希望>で終わりかと思っていた12月29日、ヒデコの唯一の友人だった陽子から「ヒデコが昨日死んだ」という電話があった。陽子は言った。「ヒデが住んでいたマンションの管理人から連絡があった。発見は死後二日目だった。父親に知らせると一人でやって来て、司法解剖、火葬場、納骨と腫れ物に触るように片付けて帰って行った」と。通院していた精神病院で投与される向精神薬を貯めて、多量服毒したらしい。
 89年の1月の或る日、ヒデコの母親は受話器の向こうから「母親には分かるのよ、ヒデコは明日死ぬ!」と言った。断絶している母は駆けつけることも出来ないので、代わりに神楽坂のマンションに行って欲しいと言って来たのだ。若いツバメを平気で家に入れたり自由奔放が余っていた母だった。重役で会社一途の父親はもっと駄目人間だった。そんな家族の中で性格を極端にスポイルしたヒデコとは俺は暮らしていけず、72年に別かれていた。17年も経っていたし、俺の友人で有名になった作家とも付き合っていた。何故俺に電話して来たのか理解し難かった。俺は行かなかった。そして2月24日、ニューヨークから成田空港に着いた日、出発ロビーで便を待つヒデコを見掛けた。お茶の水女子大の講師だったヒデコがちょくちょくロンドンに行っていたのは知っていた。椅子に座って本に目を通していたので、気づかれずに俺は咄嗟に人影に身を隠した。そして、母親の言うことは間違っていたじゃないかと思った。
 ヒデコを思い出す時、いつも「戦争は知らない」の歌が流れる。或いは「戦争は知らない」を聴くとヒデコを思い出す。この歌を彼女が何故愛唱歌にしたのか分からない。だがいつも歌っていた。父は戦争で死んでなんかいないし、嫁になんかなろうとしたとは露ほど思えない。架空の世界を作って自らを架空の人にしたかったのかもしれない。いずれにしても切ないことには違いない。