Flaneur, Rhum & Pop Culture

リッツでキング・サニー・アデに酔う
[ZIPANGU NEWS vol.31]より
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 1984年の9月、「『家族ゲーム』(監督 森田芳光)のニューヨークの封切りが決まったんだよ。一緒に行こうよ」と松田優作に誘われて、ニューヨークに行った。17・18号で触れたように、先にニューヨーク体験をした俺の報告を、羨ましく待ち受けていたという経過事実もあって誘ったのだった。二人で会えば“ニューヨーク、ニューヨーク”と言っていた。その年の松田優作は、83年度キネマ旬報主演男優賞他各賞を受賞して、個人祝賀パーティーを派手にやった位、喜んだ年のスタートを切っていた。受賞対象作品は「探偵物語」(監督 根岸吉太郎)と「家族ゲーム」だった。松田優作本人は「家族ゲーム」への思い入れの方が強かったと思うが、観客は国内で伸びなかったので、ニューヨーク公開は大いに喜んでも、あのシュールで独特の間を持ったドラマツルギーの森田演出の歪み方を、ニューヨークの客が受け入れてくれるとは、監督も含めて思っていなかった。封切りを無邪気に喜んでいた程度のように見えた。

 一行は松田優作、美由紀夫人、森田監督、そして俺と連れのデザイナー東盛太郎の計5名の小世帯で、しかも映画関係者は主演俳優と監督の二人だけだった。9月11日、ニューヨークで迎えてくれたのは、日本のある視点を持った映画をニューヨークに送り込むプロデューサーをしていた葛井克亮と監督のフラン夫人だった。彼たちの推薦と配給プロデューサー、そしてニューヨーク・タイムズの剛腕批評家ヴィンセント・キャンビーの大絶賛記事が大きく影響して、ジャパン・ソサエティのヤング・ディレクターズ・フェスのオープニング上映にも選ばれた。かくして、リンカーン・プラザの123の映画館の大看板には、1のエリック・ロメール、2のゴダール、3のヨシミツ・モリタと輝いて、初日からソールド・アウトだった。喜色満面の配給プロデューサーの接待で、バンザイを叫んで美酒で乾杯をした翌日は、ワシントン、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ボストン、シカゴと、たった一夜で拡大ロードショーが決まる、アメリカのスピードと力技に仰天させられた。当然想定外だったハプニングに嬉しい泡を喰った主演俳優と監督は、アメリカ・マスコミの餌食になったのだった。

 そんな両人への同行をためらって、俺の取った行動は自分自身のタイムテーブルを作ることだった。文化庁留費生のダンサー黒沢美香に世話をかけてホテル捜し、レストラン捜し、バー捜し、音楽捜しだった。そんな中で、先のジャパン・ソサエティで封切り前日に行われたレセプション・パーティーに、写真家として参席していた在ニューヨークの丸山メグとの出会いは、ある発想を俺に思い付かせた。それはニューヨークにライブが出来るカフェバーを出すこと、そして下北沢―ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ・コネクションで、音楽を始め様々なカテゴリーの文化交流のパイプをスピーディに切り結ぶことだった。丸山メグの彼氏はアイリッシュ系のアメリカンでバーテンダーをやっていた。「近いうちに結婚する予定なので、そうしたら今住んでいる51丁目のアパートは引越しする予定なの」などと彼女が言うもんだから、妄想癖の俺をドンドンその気にさせていった。クラブ・リッツでカルト映画『リキッド・スカイ』を前座で観ながら、派手なキング・サニー・アデに酔った。そして俺の二号店構想は、もうすっかり下北沢から遠く離れていったのだった。

 別便で帰国した夜、「レディ・ジェーン」で「帰りにJFK空港で、係員がヨシモト、ヨシモトって呼ぶんだよ。最初気が付かなかったが、ヨシモトって俺の役名だよ」と嬉しそうに松田優作が話し、「俺、暫くしたらニューヨークに部屋借りることにしたよ」と俺はのぼせて答えた。