Flaneur, Rhum & Pop Culture
きんつばと濃茶・<座禅して 人か佛に なるならハ>
[ZIPANGU NEWS vol.105]より
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 10月の下旬の或る日、広島の高校時代の同級生から便りをもらった。変わってる女性で、変わってるというのは変なこだわりをする人という意味で、だから50年以上も付き合っている。その生駒優季から、旧い書類の探し物をしていると、「哲学堂・たたきがあり客は二組以内、美しい老婦人がオーナー「広重」コース¥12000位、紹介がないと入店出来ず」と、17年位前の乱暴な走り書きメモが出てきた。俺と会話した時のメモに違いないから、記憶があれば詳細を教えてくれ、と言う。な、暫く振りだというのに変な便りじゃないか、でも面白い問合せだ。彼女が東京にいた1990年の或る日の会話だったのだろう。
 1990年頃、何かにつけて通っていた「広重」は、<江戸立場料理>を踏襲した店で、中野駅から中野通りを北に行き、早稲田通りを突っ切り二つ目の路地を左に曲がってひとつ目を右折した住宅街の一角にあった。<江戸立場料理>は、日本橋から旅立つせっかちな江戸っ子用に、即席に作れる食い物を供する店で、蕎麦やおでん、魚を調理せず生で出すにぎり寿司など、要するに立ち食い屋だった。初めて伺ったのは1985年、映画『それから』の完成試写が終わって暫く、主演の松田優作と共に脚本の筒井ともみに連れられた時だった。
 江戸時代とは違って「広重」は、狭い入り口から水を打った短い石畳を数歩やり、木戸を引いて入ると、土間になった三和土の右側に三人が座れるカウンターがあって、あがり框の奥の四畳半に一テーブルがあるだけの、どう見ても一日二組、回転が余程良くて四組の店だった。1990年頃にはこんな贅沢を味わえる常連客として許される身になっていたが、浅草生まれのチャキチャキ江戸っ子の女将は凛としていて隙がなく、俺たちも例え酔って「女将さんは一体何人の男を泣かせて来たんですか?」などと戯言を言いながらも、何処か一本芯が入っていて、江戸空間にいるような空想時間が持てるのだった。が、その時はまだ女将の仲野欣子嬢が和菓子本を何冊も著している斯界の人だなどとは知らなかった。
 1990年11月4日、生徒として通っていた茶道の裏千家の師匠、実は叔母宅で炉開きの日だった。11月は茶人に取って正月に当たる位大事な節目の月で、<炉開き>とは夏から秋にかけて使用する釜の湯、<風炉>をたたんで囲炉裏火を起こした釜の湯を使う初日の作法だ。茶室のほぼ中央に切り取られた畳の窪の炉に炭をおこし釜を掛けて湯を沸かす。茶入れ、茶筅、水指、建水、柄杓、蓋置などをしかる場に置き準備を整える。師匠は飯、煮物、焼き物、箸洗い、八寸、銚子など、懐石膳の仕度に一人大わらわだ。茶懐石が終わると、濃茶のお点前に供される縁高(フチダカ)に入れられた主菓子が、正客から回ってきて懐紙に取り分ける。美味しいが甘くて、辛党の俺はまだ一年半の修行では無理して食べてる感だった。<口切>は、夏に摘んだ新茶の入った茶壺の口を切り、一年の心身の健康を祈るこれまた<茶人の正月>なのだ。利休の言った<和敬清寂>を無理矢理心に思い描いて、皆さんと和む、互いを尊敬し、物心を清め、つつましくあれと教えを請いつつ、床の間の掛け物を愛で一輪の山茶花の花と花瓶に一声を発し、師匠の茶入れや茶杓の御名(ゴメイ)を伺い、主客と連客は一挙手ごとに言葉を掛け合い、その間決して畳縁(タタミベリ)に手を着いたり踏んだりしてはならない。座の位置から出る時は右足、戻る時は左足で畳縁を越えなければならない。十人の生徒がそれを繰り返し、やがて薄茶に変わってまた十人が繰り返す。正座し続けて四、五時間の獄門に耐えて、この<単調な所作の繰り返しの向こうに見えてくる世界>はどんな宇宙なのか。江戸時代の臨済宗の禅僧・仙崖は、禅画で「◯△□」と描いて宇宙を示したが、同じ仙崖の言葉なら「座禅して 人か佛に なるならハ」と詠い「ボケッと座って何になる、座っているだけなら蛙は生まれながら座っている」と諭した諧謔はよく分るのだ。