Flaneur, Rhum & Pop Culture
<ベルリンの壁>は二度崩れる
[ZIPANGU NEWS vol.101]より
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 1989年6月4日天安門事件勃発、11月9日ベルリンの壁崩潰、二つの事件は<イデオロギー>の時代の崩壊だった。昭和がおわり平成に切り替わった年の24年間が、こんなにもちんけだったとはまだ思えなかった平成2年(90年)の7月、“わが心の街”などと嘯いていたベルリンの壁の後をどうしても体験したくて、エアーフランス機に乗った。早朝ドゴール空港で乗り換えてベルリンのテーゲル空港につくと10時半だった。
 Uバーン(地下鉄)に乗ってメッセナー駅で降りた。公衆電話から宿泊先に何度も電話を入れるが通じない。4、5台電話ボックスをかえてみても通じない。不安がよぎるがその不安が旅を面白くする。お手上げだ、住所をたよりに探すしかなかった。宿泊先の友人・高瀬アキに訊くと「あそこの公衆電話全部壊れてる」だと。ニューヨークの二の舞だった。翌日彼女が俺と友人をブランチするためにレストランに連れて行った。昼時で混んでいたがどうにかテーブルを確保した。ところがオーダーを取りにこないで、後から入ってきた客を次々優先しているので頭に来ると、彼女が言った。「私は十何年もそうだ」と。よおよお、枢軸国同士じゃなかったのか、等とは思わない。ナチスから亡命したからと言ったって、<原爆の父>アインシュタインを生んだ国に原爆は投下しないよな、やっぱりヒロシマ、ナガサキなんだ、と腹を立てつつ僻んでくる。
「くそっ、バリバリ格好つけてた『カフェ・アインシュタイン』!」
 翌7月21日は唯一の旅の目的『ザ・ウォール』コンサートの日だった。1979年のロジャー・ウォーターズの手によるピンク・フロイドの『狂気』と並ぶ大作『ザ・ウォール』は、教育上の差別や社会での抑圧を壁になぞらえて、幼少時に父を亡くした主人公のピンクの、破綻と回復を繰り返す精神世界を描いた叙事詩になっていて、ウォーターズ自身の物語でもある。かって東西を分断して二重に走っていた、壁の間の広大な跡地ポツダム広場は当時はまだ瓦礫の広場で、地下はナチス総司令部だった。そこで行われた<壁崩壊・統一記念>コンサートは、それまで行なってきた『ザ・ウォール』コンサートが、大掛かりな壁を仕込んだステージで評判だったので、それなりに推測していた。とは言え、B・スプリングスティーンやB・ディラン、M・ジャガーやボノが出るという噂が消えて、乗り出していた日本のTV局が現地取材を取りやめたため、招待席を失ったばかりか、一切の予備情報が無いまま現地入りしたという、八方かぶれの意地を張ったベルリン詣でだった。日本の文化後進国振りを嘆いても始まらない、ポツダム・プラッツに5時頃着くと、異常に人が溢れて歩道に造ったチケット・ビューローで切符を買うと71139番だった。ベルリンの情報誌には開演が17時30分と書いてあったが、チケットにメインアクトの『ザ・ウォール』は21時30分と書いてあって、「えっ、何?」と呆れたが、今さら会場に行くしかなかった。すると、聞こえてきたのは『ザ・バンド』の音ではないか、「えっ、何?前座の初っぱなが?!」と興味を新たに正した。
 壁が壊れてやっと春が来た東欧の恋人たちが、何万人も瓦礫と砂にダイインして抱き合っている。音楽も良いが、その解放された状況下にいることが至上の歓びなのだ。どんな状況になろうが日本人には出来ない技だ。コーラの1L瓶を恋人のように抱きしめている。こちとらはその上を砂をかけながら跨いで、ステージを延々と探す。辿り着けず、そのうち辺りが暗くなると、近場の大型スクリーンにステージが映写され、バイクに誘導された真っ白いリムジンが滑り込んできた。四つのドアが開いてウォーターズとメンバーが下りてきた。真っ赤な照明に白煙と爆音、『ザ・ウォール』の始まりだった。10時。
 シンディ・ローパー、シンニード・オコナー、ジョニー・ミッチェル、マリアンヌ・フェイスフルなど、女性群だけでもこれらが矢継ぎ早に登場したが、最初に登場したのはウテ・レンパーだった。俺は88年にデビューすると同時に“ヴァイル歌い”ともてはやされ、“ガルボの頬とディーットリッヒの脚線美”とか“ヨーロピアン・デカダンスの歌姫”と冠された彼女に聴きほれ、88、89年と来日時には夢中になった人だった。
 間口が170メートル、歴史の戦禍を映し出して最後に崩れた壁の高さが25メートル、9時間のステージに30万人が駆けつけたと、翌日の新聞は報じていた。『ザ・ウォール』にもウテ・レンパーにも目が向かない日本の文化は恨めしい。