Flaneur, Rhum & Pop Culture
店内の壁に張り付いた「芳雄節・リンゴ追分」
[ZIPANGU NEWS vol.91]より
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 去る7月19日の昼間、原田芳雄が無くなったと青山真治から電話を受けた。すぐさま原田邸に駆けつけて、マスコミ大取材群を掻き分け家に上がると、既に故人を慕っていた多くの友人知人が悔やみ酒を飲っていた。奥の部屋で病院から戻って来たばかりの芳雄大兄は布団に寝ていた。ほんの3日前には病院に見舞ったと黒田征太郎から電話を受けたばかりだった。そして俺は躯のそばで、故人が「レディ・ジェーン」に一人でやって来た数年前の夜のことを思い出していた。2007年の5月のゴールデンウイークだった。
 「原田さんが来ました」と電話を受けて店に行くと一人だった。吃驚した。来る時はいつも数人連れだったし、よその店で一人で出会う時も外には事務所の運転手を待たせていたし、一人は予想外だった。テーブルの前に座るといつもと様子が変だった、というより神妙だった。で、話していく内にピーンと来るものがあった。それは死んだ俳優の加藤善博のことだった。数日前の4月27日は土曜日だった。中目黒の昼下がりの人気の無い公園で首を吊った加藤善博は、広尾病院の救急に搬送されたが死んだ。地下の霊安室にいやしくも俳優が名無しのまま置かれて、29日葬儀も何も無いまま桐ガ谷斎場で火葬された。見送る人7、8人だった。ことの次第を5月1日付けで俺はエッセイに書いた。それを読んだ原田芳雄は反射的に来たのに違いなかった。だが俺はそれには触れなかった。当人が触れないので俺も触れなかった。底辺には重い空気が流れていた。2時間ほど経っただろうか、原田芳雄が「西麻布にこれから行こうと思う」と言うから、「西麻布って『ホワイト』に決まってんじゃない。一緒に行こう」と俺が言って、タクシーを捕まえると空気は流れた。病気加療中だった「ホワイト」のママ・ミーコこと宮崎三枝子ともそれが最後になった。原田芳雄のことを思う時、何故かその日を思い出してしまう。
 90年2月3日、前年の11月からプロデューサーの荒戸源次郎発案の特設テントで上映されていた阪本順治の初監督作品『どついたるねん』をやっと観に行った。テントは原宿にあった。致命的な傷を負ったボクサーが復活を賭けて戦いに挑む話で、この作品は、89年度のブルーリボンン賞、キネマ旬報ベストテン2位の他、主役の赤井英和が新人男優賞、相楽晴子が助演女優賞。元ボクサーでトレーナー役の原田芳雄は「役者としての細胞がざわついてきた」という予感通り、助演男優賞を受賞した。荒戸、阪本の同じコンビの『鉄拳』(90)もそうだが、主演ではなくて助演なのだ。この頃から原田芳雄は、演技者として出演作品選びを変えていったと思っている。つまり、主役にこだわるでも無く、新人監督作品でも、低予算でも、引っかかった作品には映画を支配する程積極的に撃って出るやりかただが、『どついたるねん』の受賞は特別な感慨があったに違いない。2月28日に原田芳雄は多くの仲間を集って受賞記念パーティをホテル・オークラで開いた。90年代〜00年代へと続いた俳優原田芳雄の大きなトランジションだった。「レディ・ジェーン」のライブにやって来て、飛び入りで『芳雄節・リンゴ追分』を歌った頃のことだ。
 思えば70年、日活ニューアクション映画『反逆のメロディ』は、俊英澤田幸弘監督の<価値の崩壊した時代>を反映した思念に満ちた技ありの映画だが、テレビドラマ『五番目の刑事』のジープに乗ったサングラスの刑事・原田芳雄が、そのままの格好でアナーキーな一匹ヤクザ役でスクリーンに初登場した時の衝撃度は忘れない。ジーパンをはいた刑事もヤクザもそれまでスクリーンにはいなかった。格好も汚いがやり方も汚い。コンミューンやイデオロギーに頼るのではなくて、<個にこだわる>情熱や私怨を貫くダーティ・ヒーローの確立と継続は最後の作品までそうだった。
 その阪本順治の監督作品6本に原田芳雄は出ているが、何回も原田邸で酒を酌み交わす折に、「俺はお前の映画に一本も出てない」と言われていた監督が、そこで「俳優と監督で一本やりましょう」とけしかけた時に、原田芳雄自身が持ち込んだ企画が最後になった『大鹿村騒動記』だった。疎開先での幼少の浪曲体験から、足立区に戻ってからの田舎芝居に落語好きは昔から訊いていた。してみると、「荒っぽくて、綺麗ごとにならない」芸能の原点に立ち戻って逝った訳だから、輪廻を転生したということになる。