Flaneur, Rhum & Pop Culture
メレディス・モンクは『TURTLE DREAMS』の夢を見るか
[ZIPANGU NEWS vol.90]より
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 <魔に憑かれた年>1989年が終わり、唯一心開かせる<世界の変容>を期待させるものは、自称わが心の街<ベルリンの壁>の後がどうなって行くのかだった。とは言え年末年始は毎年やることを決めてはいないので、年賀の宛て名書きとか、毎月の私家版通信の文面などを書き足したりしている。
 “『北北西に進路をとれ』と蜜令を受けて『偽りの晩餐』を敵が送り込んだ女と『パリで一緒に』取った後、ロスに飛んで『チャイナタウン』に潜り込んだ。『中国女』は手強くて、『東京物語』はとっくに終わりを告げ『小早川家の秋』の財宝は『灰とダイヤモンド』となって海中に没し、やっと『水の中のナイフ』を一本発見したのだった。俺は『秋津温泉』に女を待たせたまま『日本の夜と霧』を抜けて『暗殺の森』へと入っていくのだった。”
 と、続けようと思えば何処までも続く呑気な正月だった。通信の投稿エッセイは監督の深作欣二か写真家の星野道夫に頼んで見ようと思っていた。ライブ出演者は国内外のミュージシャンを問わず、言葉は悪いが買い手市場だった。
 1月14日、お茶の初釜があって初めて新年を意識した。その翌日は成人式の日だったが、東京に珍しく大雪が降って気持ちを解放させる正月らしさだった。そんな1月30日、渋谷のジャンジャンで『舟を眺める』と題した舞台があった。ダンサーの黒澤美香が続けていたシリーズのvol.◯◯だったが、いつも通り構成は相棒の出口大介、楽士はヴァイオリンの太田恵資だった。そう言えば、4年前の07年にパブリックシアターの「シアタートラム」で木佐貫邦子と黒澤美香がやった、共演になってない競演というか、調和なる物をはぎ取り、客の想定していた<約束>を根底から裏切ったダンス公演も『約束の舟』と言う「舟」がタイトルについていた。デュオとは言えない同時多発ソロの不協和音ダンスは、マクベスの魔女の言葉ではないが、「きれいはきたない、きたないはきれい」となる。念頭に刷り込まれた表現や美の意識を転換するなり、逆立ちして観るなりしてやっと五感が開くというものだ。ジャンジャンのステージもそうだった。黒沢美香の舟は近代科学が生み出した彼らの面舵取舵では最初から難破していたのだ。
 身体表現の人、殊に舞踊家、舞踏家なればどう五体表現に向かうのかになるのではないのか。しかし、言葉や歌を発する身体と、発しようとする身体そのものが何と乖離しているのかと自覚したり、五体の内でも腕や足は本来表現に機能する役目のものなのに、邪魔になると感じることがあるではないだろうか?すると身体はだるまになる。そこでダンサーは踊るために何を選ぶのか?彼女の踊りを観る時、いつもそんなことを思ってしまう。別の言い方をすれば、自分の物でしかない唯一確実な身体の、表現のヒエラルキーに対する不届きな挑戦だった。<彼女は踊ることを止めた>ダンサー黒澤美香の挑戦は85年から始まった。
 83年12月、ニューヨーク一人旅に出掛けた時、舞台人として文化庁からニューヨークに留学していた友人のジャイアントこと大石篤(当時高橋正篤)から、同じ留費生の黒澤美香を紹介された。一人旅の俺のガイドは、ヴィレッジヴォイスという週刊のタブロイド情報誌だったが、読解がまだアマチュアで、酒場やジャズクラブはまだしも、シークレット・イベントや最先端の溜まり場「レゲエ・ラウンジ」、上演中のブロードウエイの良し悪しの選別、チャイナタウンのNO.1の店「合記飯店hopuki」など、電話で呼び出す度に会ってくれた美香嬢から教わった。『リキッド・スカイ』(82スラバ・ツカーマン監督)という非常にメタリックで妖しい、露光過度のソラリゼーション映像のヘロイン映画を観たのもその時だった。ローリー・アンダーソンのことを訊いた時は、「今ニューヨークじゃ、ローリーより、メレディス・モンクね」と一蹴された。レコード・ショップにすぐさま駆けつけたのは言うまでもないが、そんな美香嬢とのNY体験は、俺と街の距離を圧倒的に短くした。
 そして翌々年の85年、黒澤美香は東京でダンス・カンパニーを立ち上げ、異形のコレオグラファーへの道の一里塚として、俺が西麻布に出した「ロマーニッシェス・カフェ」で、踊らない踊りを踊るのだった。