Flaneur, Rhum & Pop Culture
ブライアン・フェリーの「アバロン」が聞こえる
[ZIPANGU NEWS vol.88]より
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 つい1、2ヶ月前にある人に絡む企画ものを提案しようとして、ある大学の学生支援課の知人に電話を入れると,「以前にもその話が大木さんからあった時、担当教授に上げたら『昔過ぎてその人のことはうちの学生は知らないんじゃないだろうか』と言われたんですよ」という返事だった。その人とは松田優作のことだった。勿論その教授が何歳の人か知らないし、松田優作に対してどういった思いや好みを持っているかは知らない。只はっきりしているのはその教授が自分の大学の学生をそのように観ているということだった。俺は息を飲んだまま「そ、そうですか」を答えるのがせいぜいだったが、時節風雪が斯くも急速度に軽やかに、忘却的に無惨に過ぎて行くものかと思った。
 1989年11月5日は俺が手習いをしていた茶道の会の炉開きの日だった。5月から10月までは、畳座敷に敷板を敷いた上の釜の湯を使う風炉に対して、11月から4月までは、座敷に切ってある炉を開けて、炭をおこし釜の湯を沸かすのを炉といって、その初日が炉開きだった。普段はろくすっぽ知らない手習いの生徒の俺も参席が許された。初めての炉開きの日、茶懐石料理もついた式次第に乗っ取った茶事が行われた。
その1年前に松田優作と飲んでいたある夜のこと、「俺、禅をやろうと思ってるんだ、一緒にやらないか」と誘ってきたので、「分かった。でも一緒にやらない、茶道には禅も華道も食も入っている、俺、お茶をやるよ」と、生意気に答えたことが引っ込みがつかなくなった原因だったが、元々茶事には興味を持っていて、裏千家の淡交会の師匠をやっていた叔母には何度も誘われていたこともあったので、いいきっかけだったのかも知れなかった。普段は作法とお茶を立てる稽古を習っていたが、1年も経たない内に茶事に参席したのだから,失態も含めてよく憶えてない筈がない。その頃週一回の稽古日があっという間に来てしまう目まぐるしさにヒィヒィ言っていたけれど、一緒に習っていた9歳の娘と“和敬清寂”<晴れ>の気分を味わったのだった。
 ところが、翌日の11月6日、「ロマーニッシェス・カフェ」に夕方から出ていると、まったく予期せぬ訃報の電話が突如入った。松田優作が生前所属していた映画製作会社セントラルアーツからだった。年明けに戦争だらけだった昭和が逝って、2月に福島原発が起こって,大谷石採掘場が大陥没して、手塚治虫が逝って、4月に秘書の自殺も道ずれにした竹下内閣がリクルート汚染で崩壊して、6月に美空ひばりが逝って、天安門事件が起こってと、その後に続いた忌むべき89年の締めくくりの出来事だった。俺の茶の習いのきっかけを作っておいて<晴れ>を潰すという、人の振り子を片方から片方に大きく振り回す出来事だった。
 9月16日、俺がタイのバンコク空港に降りると、松田優作は到着ロビーで待っていた。日本テレビのドラマ『華麗なる追跡』(監督村川透)のタイ・ロケで撮影をアップした優作から、プーケットに遊びに行こうと誘いを受けていたからだ。俺は簡易アクアラングと、4日前に観た『ブラック・レイン』(監督リドリー・スコット)のプレビュー試写の後、松田美由紀と食事をした時に預かった伝言を抱えていた。一見元気そうに迎えてくれた優作とプーケット行きの出発便を待ちながら、俺は溢れ出る『ブラック・レイン』の感想と美由紀夫人の伝言を話した。すると「ハリウッドに来てくれたじゃない。あんなもんだよ。ま、俺のプロモーション・フィルムにはなったんじゃないか」が返答だった。OK!映画の話は止めた、プーケットへの旅の楽しみに切り替えようと俺は心構えた。それに付けても思い出されたのは、何回もしつこく旅に行こうと誘われたことだ。そうした時決まって言うことは,「この間○○と××に行って来たんだけどよ、詰まんねえんだよ。東京で1センチ違和感があるとするだろ、海外じゃそれが1メートルになっちまうんだよな」と言った後、“行こう”だから、数人ならいざ知らずおいそれと頷くわけにはいかない。○○とは大概某有名人ばかりだ。百回目に実現したプーケット行きの座席が針の筵だったかくつろいだシートだったかは言わないでおく。2日後、バンコクに戻って来て先に帰る松田優作が見送る俺に言った。「じゃ,21日『レディ・ジェーン』で」。89年9月21日が最後の誕生日になった。