Flaneur, Rhum & Pop Culture
HIBARIが逝った89年はまだまだ続く
[ZIPANGU NEWS vol.85]より
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 下北沢の駅から茶沢通りに出て南に歩くと桜が名物の北沢川遊歩道がある。そこを少し越えると梅が丘通りに出るが、その代沢交差点を右折して鎌倉橋を更に左折するとすっかり当たりは住宅街だ。いや一軒だけ小劇場の「東演パラータ」があって、その路地前にもっと古くから「邪宗門」という純喫茶店がある。駅から徒歩12、3分のそんな住宅街に40数年も前に店を出した一風変わった主人は、初代引田天功に弟子入りしたマジシャンでもある。古い店内を飾る南蛮から掻き集めたアンティークの数々と、モカベースにブレンドした豆をネル地でドリップしたコーヒーが売りだ。何せ北原白秋の<われは思ふ未世の邪宗切支丹でうす魔法…>の「邪宗門」を屋号にしているだけでも怪しい。戦前から戦後にかけてまず横光利一、次いで萩原朔太郎・葉子父子、宇野千代と東郷青児、石川淳、加藤楸邨、田村泰次郎、三好達治、坂口安吾に、田中英光等がいて、<外にも出よ触るるばかりの春の月>の俳人の中村汀女などは50年以上も住んでいたほどで、まだまだ書き切れない大変な文士の住居群だった。当然往時は「邪宗門」に顔を出していたことだろう。晩年の森茉莉は一杯の紅茶で一日中「邪宗門」に通っていたのは有名な事実で、筆者も路地や店で何回となく見掛けたものである。昼は近くの帝都パン屋から買ったパンを食べて毎日同じ入り口の左の席に座るのである。それは恋しい人が来たらずっと奥の見通せる席に座るからだ。でもなかなか来ない。来ても嗅ぎられずに遠目にちらっと見るだけだったから胸が詰まる。大文豪の娘はかくも切なく自らの著「贅沢貧乏」の世界に死ぬまで生きていたのだ。「邪宗門」は今<北沢川文化遺産保存の会>の事務局にもなっている。
 そんな「邪宗門」の更に奥に行くと、何と開店を大反対したママが集めた美空ひばりコレクションが所狭しと陳列されている。古いレコードからブロマイド、ジュークボックスがあって当時のドーナツ盤が入っている。SP版も揃えてあって一度行ってみるが良い、尋常ではありませんよ。
 2月18日、「邪宗門」から南へ12、3分歩いた三軒茶屋のパブリックシアターで<HIBARI 7DAYS>という美空ひばりのフィルム、トーク&ライブの初日に行ってきた。勿論美空ひばりの歌を歌うのだが、前夜祭的な趣向でいろいろな人が次々に出てきて落ちつかなかったが、二部になってその内の一人我らが浜田真理子が登場した。一曲目は誰でも知っている「悲しい酒」だったが、二曲目に選曲した「さくらの唄」はひばりファンでもなかなか知られてないのではないか?久世光彦はドラマの主題歌にしたくって、中西礼作詞、三木たかし作曲の三木たかしが歌ったテープを、大きいテープレコーダーを抱えて上演中(名古屋)の美空ひばりの楽屋を尋ねて直談判したところ、「びっくりして見ると、ひばりはボロボロ涙をこぼして歌っていたのである」と自身のエッセイ『マイ・ラスト・ソング』に書いてあるように、ドラマの主題歌になったのである。浜田真理子がステージから言ったように、「生きる希望の無い、絶望的で、救いようのない」歌であるが、生きるために絶望するとでも言おうか、彼女の乾いた伸びる声は歌詞の内容を突き破って聴こえた。次いで若い土岐麻子が「上海」をなかなか粋でかっこ良く歌い、由紀さおりが、「ハワイで同じステージに立った時、私の『恋文』をひばりさんが歌うからあなたはこれを歌いなさいと言って指定された」という歌、「哀愁波止場」は心を刺した。トリの雪村いずみは「ツウヤング」をテープのひばりと江利チエミと、55年前の<三人娘>になって共演した。最後のフィナーレは88年の東京ドームの不死鳥コンサートから「人生一路」が画面にアップで映写されると、そこはもう降臨したひばりが支配する世界、出演者は皆凝視して聴き入るしか無かった。
 89年は世界にとっても個人にとっても特に記憶すべき年、6月24日美空ひばりは逝った。なんと51歳という若さだった。父に連れられて行った疎開先の栃木県佐野の戦後の映画館で、映画は娯楽の王者の時代、俺5、6歳、『悲しき口笛』や『東京キッド』、『鞍馬天狗角兵衛獅子』、『リンゴ園の少女』、高峰秀子の『東京カンカン娘』以外皆美空ひばりだった。
 パブリックシアターから「邪宗門」はほんのちょっと、毎夜降りて来ているのなら、歩くか自転車の後ろに乗せても良いから、「行ってみませんか」と連れて行きたい所なのだが。