Flaneur, Rhum & Pop Culture
89年の春の羅針盤はエスパニヤに向いていた
[ZIPANGU NEWS vol.84]より
LADY JANE LOGO











 昨年の2010年には実に多くの友人知人を失ったが、5月12日、主に海外の音楽、演劇、舞踊公演の企画制作をやっていたカンバセーション&カンパニーの芳賀詔八郎が肺炎で逝った。数年間癌と戦いながらも、様々の領域の実験性に富んだハイレベルの舞台を呼んでいた。マイケル・ナイマンがスコアーを書いて指揮をしたロシアのジガ・ヴェルドフ監督の無声映画『カメラを持った男』('29)や、F・F・コッポラやJ・ルーカスがプロデュースしてゴッドフリー・レジオが監督した無声映画『コヤニスカッテイ』や『ポワカッテイ』を、作曲したフィリップ・グラス自らが演奏したフィルム・コンサートなどは、個人的にも現代文化史的にも貴重な垂涎の催しだった。先端の弦楽四重奏「クロノス・カルテット」やキューバのバンド「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の招聘もそうだった。サーカステントでやったフランスのロマの騎馬オペラ「ジンガロ」は驚愕の迫力だった。
 俺のこうした音楽、音楽と無声映画、多種混交舞台への傾倒は、「レディ・ジェーン」の10年後、85年に「ロマーニッシェス・カフェ」を作った時には出来上がっていた。88年アストル・ピアソラが再来日して更に加熱した。89年になって、1月にフラメンコ・ギターのパコ・デ・ルシアがやって来た。芳賀詔八郎が3月のジャズ・ヴァイオリンの頂点にいるステファン・グラッペリに続いて4月、マニタス・デ・プラタを招聘したので、昭和人見記念講堂に行った。インド北部から流れ着いた流浪の民のロマ音楽はスペインではヒターノと呼ばれているが、フラメンコは純粋なロマ音楽というよりスペイン南部のアンダルシア地方の土着音楽と融合して生まれた独自音楽と言えるようだ。それ故フラメンコ世界には、“あいつは偽のロマだ、ヒターノだ”“俺こそ本物のフラメンコだ”と勝手な真贋論争が耐えないらしい。パブロ・ピカソやサルバドール・ダリを友人に持つマニタスは、出自の怪しさを噂に聞いたこともあったが、達人の領域に達した無学で文盲の老ギタリストが繰り出す<銀の手>使いは魔法のようで、遂にはステージを降りて、左手だけでリズムとメロディを弾きながら客席のお嬢さんを引っ掛けて観衆の笑いを取る芸当に、ヒターノの生と音楽の一体観を見た気がした。決め打ちは6月にやって来た「アントニオ・ガデス舞踊団」だった。演目は『炎』と『カルメン』だった。
 当時月に一回必ずやることがあった。それは両店のライブのチラシの版下作りだった。特に「ロマーニッシェス・カフェ」の方は、ライブの料金、時間、出演者、キャプション&キャッチコピーの他、映画内に登場する酒と映画のエッセイと八方被れ時評、各界人の寄稿文に表紙の写真は必ず20年代の写真家J・アンリ・ラルティーグにした。原稿用紙に書き上げると、南平台にあった写植屋インクスポットに持って行って翌日受け取りに行く。それをカッターでカットしてペーパーボンドとピンセットで貼付けレイアウトする。出演者と表紙の写真にトレンシング・ペーパーをかぶせてトリミングして何%縮小かを指定する。罫線をロットリングで引くか、イラスト集から選んで切り貼りする。徹夜で終えると翌朝梅が丘の印刷屋七月堂に持って行く。という作業だった。
 89年3月25日は、ジャズの番組に混じって久米大作率いるバンド「Selah(セラ)」の映画音楽集『シネマエキゾチカ』の新譜発売記念ライブだった。クルト・ワイルやフランシス・レイ、カルロ・ルスティケリの曲が、どのようにアレンジされてどんな世界に引き込もうとするのかなどと想いつつやれば、版下作りも又楽しからずやだった。メンバーだったcobaこと小林靖宏などアコーディオンの出演を何処からも拒否されていたことを知って88年、ニーノ・ロータからスタートした経緯もあった。狹量なジャズから自分を自由を解き放ちたかった。15歳の時、バイトでためた小遣いで、レコードを乗せるとはみ出すポータブル蓄音器を買った記念の一枚目のLPはハリー・ベラフォンテだった。等思い出しながら徹夜をするのも楽しからずやだった。
 そうして、長きに亘って俺の本来の八方美人振りを多いに焚き付けてくれた信頼のプロデューサー故芳賀詔八郎が起こしたカンバセーションは、暮れも押し詰まった昨12月20日、遂に自己破産の申請のやむなきに至ったようだ。何と言う無惨、しかし何と言う潔さというべきだろうか。