Flaneur, Rhum & Pop Culture
キャバレーはすべてを包むと妄想していた頃
[ZIPANGU NEWS vol.79]より
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 前号の続き1989年2月17日の25時過ぎ、ドキュメンタリー映画『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』の完成パーティ会場の14丁目&パーク・アベニューから、ピアノ・バー・かおるにタクシーで戻ると、石橋凌がまだ残っていた。ママがまだ飲みたいと言ったので、俺たちの宿泊先の23丁目のグラマシーパーク・ホテルで飲みなおし気がつくと朝だった。目が覚めたのが夕方の5時で、ニューヨークに来て何をやってるんだ!だったが、地元で俳優修行中だった稲川ミック豪を呼び出して、音に聞こえたロックのライブハウス・CBGBに押し掛けた後は、マイケル・ドルフのニッティング・ファクトリーをはじめ、先端音楽のライブハウスの音源を収録してレコード化していた杉山和紀の自宅を訪ねた。その自宅にあるスタジオに通されると、広さと機材設備の完備具合にもびっくりしたが、エンジニアーとして手がけたCD作品とこれからCD化する予定のユージン・チャドボーンや近藤等則、デヴィッド・バーンやジョン・ルーリーやアート・リンゼイなどの音源がズラーッと並んでいた。そんなニューヨークの特殊時空間を味わった。そして俺は寝腐った時間の元を取った気分になった。
 3日後の2月21日、俺は宿泊先をタイムズ・スクエアの近くのアルゴンキン・ホテルに変えた。昔アーサー・ミラーやノエル・カワードをはじめ、ブロードウエーの重鎮たちの定宿だった史実にも惹かれたが、部屋は多少狭くなっても、普請や調度品に歴史を感じさせる品の良さがあった。アルゴンキン族はアメリカ先住民族の一族だったことを知って、2日後、1階のラウンジでライブコンサートをやっていた『ジャニー・ギター』のペギー・リーの本名はノーマ・ジーン・エグストロムと言って、ノースダコタ出身の先住民族だったことを知っていたから、感じ入って一人合点したのだった。そして何よりも1階の脇に魅力的なブルー・バーがあったことだ。やや暗めの店内照明の壁に浮かぶズラリと額装された、週刊誌『ザ・ニューヨーカー』の表紙を彩った漫画家J・J・サンペの漫画が愛しかった。早い夕方、そこでダイキリや名物サファイア・マティーニを飲って一人の時間を過ごすと、お次ぎは5番街のハリーズ・バーに行くしか無かった。そう言えば今年の6月だったか7月だったか、「ヴェニスのハリーズ・バーが多くの伝説を残して遂に閉店」といった新聞記事を思い出したが、そのニューヨーク支店のハリーズ・バーだった。本店に負けないほどの質量を備えていたが、数年前に入店拒否にあって、ホテルにネクタイを取りに戻っても再入店した曰く付きの店だった。そこでも元祖マティーニは飲るけど、お目当ては店の売り上げの60%を占めると嘘に決まっているが豪語しているシャンパン・カクテルの元祖ベリーニだ。そんなこんな一人歩きをしていると待ち合わせ時間の24時だった。
 ミッドタウンをハドソン川に向かって9番街まで歩く。ニューヨークに引っ越していた阪本洋三と言う、86年に放送した松田優作主演、筒井ともみ脚本のNHKドラマ人間模様『追う男』のアシスタント・ディレクターをやっていた時に知り合った男に電話をして、どこか面白いキャバレーはないかと言う俺に彼が指定した場所だった。彼はニューヨーク体験留学中の島田雅彦を連れて来て、俺は石橋凌と豪を連れて男5人だった。Don't Tell Mamaという妖し気な店の決して大きくないステージでは、知的でエロいコントで客の笑いを取っていた。ここにも明日のブロードウエーを目指す俳優の予備軍が多くいた。目の高い阪本洋三が選んだ店はレベルは相当高いと思うのだが、昼はダンスや演技の専門学校に通いつつ夜は現場で技を磨くそんな環境や店がうじゃうじゃあるのだから、ブロードウエーは虹より高いのだろう。
 ニューヨーク行きの個人的な目的のひとつは、885年に開いた「ロマーニッシェス・カフェ」で実験を繰り返していたキャバレー構想を本格化できないかと、体験研修をすることだった。その夜のDon't Tell Mamaは5件目のキャバレーだったが、つんのめるようになっていっている俺のキャバレー妄想に、更に拍車をかけたのが、ニューヨーク在の写真家の知人丸山めぐだった。