Flaneur, Rhum & Pop Culture
映画の父の国を覗き見する
[ZIPANGU NEWS vol.77]より
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 1989年は公私ともに記憶させられる年だった。年明け早々の天皇の崩御による昭和の終焉は、いま思えば戦後の時代を断裁することだったのかもしれない。その証拠に平成21年から22年の今、忘れた遠い時代を懐かしむように、“昭和、昭和、昭和”とジャーナリズムはうるさい。
 前号で触れた本阿弥光悦の贋作楽茶碗事件はお笑いぐさだったが、半信半疑の偽物にまだ心振り回されていた1月の終わり頃、ニューヨークだったかロスアンジェルスからだったか映画『ブラックレイン』の撮影中だった松田優作から電話があって、「2月からはハリウッドの撮影所で撮っているから来ないか」ということだった。しつこい誘いに負けて嫌々ながら、嫌々というのは門外漢の俺の腰は相当引けていたという意味だが、行くことに決めた。出発する前日のことだった。家族と取っていた夕食時、ガリッと口の中で音がして親知らずが欠けた。「嫌々が当ったじゃないか、ほら」などと、身のふがいなさを思って縁起でもなかったが、ロスで欠けることを思えば「神」の導きがあったのだ。翌2月13日の出発便は19時だったので馴染みの虎ノ門の歯医者で治療を受けた。おまけに芝大門の菩提寺に先祖参りをしたかと思うと、下北沢の自宅に飛んで帰り北沢八幡にも参り、神仏合体八百万をよろしくして成田に向かった。いつものように一人旅だ。
 ロス空港からタクシーで30分、サンセット・ストリップにあるモンドリアン・ホテルにチェックインすると、ブラックレイン・クルーのフリーパスがメッセージボックスに入っていた。フロントからそんな物を預かるといきなり気もそぞろになる。荷物を部屋に放り投げてタクシーで撮影所に向かった。「ユニバーサル・スタジオ!」というと、若い白人の運ちゃんは「オーッ、まかしとけ」とばかりに北に向かって数十分、「ユーガッタ!」と言った。見ると広大な遊園地の「ユニバーサル・スタジオ」の入り口ではないか。馬鹿にしてるのか!「この『ユニバーサル・スタジオ』ではない」と俺は冷静に言ったが、じゃあ松田優作がここに来いとメッセージに書いてあった「ユニバーサル・スタジオ」は何処なのか?「フィルムメイキング・スタジオのユニバーサルだ」と言い直すと「それは何処だ、知らない」と言いつつ、運ちゃんは闇雲に通行人に訊いては車を走らせた。「世界のハリウッドはお前の街だぞ!」俺は腹が立って来たが、一人珍道中を思うと失笑して来て喧嘩にならない。やっとのことで着いた時には、運ちゃんは汗を流していたので笑って返した。パスは天下の印篭の効き目を発揮して、ついに撮影現場にたどり着いたのだった。
 「松田優作」ではなく、信じ難いことに役名の「佐藤」と書いてあるトレーラーには日常の住いの機能がすべて備わっていて、次のシーン待ちの隙間の時間とは言え、その<佐藤の部屋>でメイク、衣装、小道具の諸君とジョークを交わしながら、寛いでいる<余裕>の光景も信じ難いことだった。それが助監督の「次のシーン撮りまで5分」の合図から徐々に<弛緩から緊張>へと向かうのだが、いきなりそれらを目の当たりにして、ハリウッドの映画製作の基本が読めてくるようだった。スタッフがユニオンに入っているかということ、出演俳優は技術を持った役名だということ、クルーは水魚の交わりであること、良いシーンを作るためならテイク(金)はいくらでも繰り返すこと、それを支えているのは、契約と信頼と豊潤な資金だということ、それらがすべて合理主義的映画製作の道理上に成り立っているのだ。単純明快なハリウッド・メソッドの中にあって、他の日本人俳優が次の出番シーンへ精神を統一し過ぎると、本番で持続力は大丈夫なのかと心配にさえなってくるのだ。例えばジャズ・ミュージシャンがそんなことしてステージに上がろうものなら、演奏にならないばかりか、それはあらかじめ失われたジャズではない何かだ。
 アメリカン・プラグマティズムはその日の撮影が終わっても続いた。仕上げはダウンタウンでスタッフを引き連れ打上げだ。俺の隣でセコンド・プロデューサーのアラン・プールが言った。「優作はリドリーのクルーを呑み込んでいるからすごい俳優だ」と。「明日もカメラになって学習するよ」と俺は言った。