Flaneur, Rhum & Pop Culture
1988年9月5日に始まった『ブラックレイン』
[ZIPANGU NEWS vol.73]より
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 昨年は松田優作の生誕60年・没後20年にあたり、年の後半にそれを記した催し物や作品が創られた。ジョー山中や黒田征太郎の生前からの友人や故人の遺志を継ぐ若手に依る、9月から11月にかけた日本各所でのライブコンサートや、命日の11月6日に封切られた「今まで公にされなかった肉声インタビューや秘蔵映像などはじめ、松田優作の魂に触れられる貴重な資料が集録された」映画『SOUL RED松田優作』(監督・御法川修)がそうだった。俺も最後の催しとして12月1日に赤坂の草月会館ホールで『松田優作二十年の曳航/不在証明』と題したステージを企画した。出演作品の脚本、エッセイ、作詞、インタビュー記事の中から一切の加筆訂正を加えずに、脚本家の丸山昇一が再構成した台本による朗読と優作ソングで紡ぐという、上手く行くのか失敗に終るのか、表現になったのか分からない実験的な前代未聞の舞台だった。出演戴いた阿木燿子、吉川晃司、織田哲郎、斎藤ネコ、奈良敏博、山田亜樹の諸兄にはヒヤヒヤの思いをさせたと思っている。
 1988年9月5日、かねてより聞いていたハリウッド映画『ブラックレイン』(監督・リドリー・スコット)の最終オーディションに受かったと、松田優作から喜びの電話があった。或るドラマの撮影中だがキリが付いたら会おうということになって、「レディ・ジェーン」でなくて「ロマーニッシェス・カフェ」に行くと言った。で、その夜は下北沢ではなくて西麻布が居場所になった。2軒の店があっても身は1つなわけだから、毎夜当日にそんなことでどっちに行くかを決めていた。俳優の石橋凌と故映画ライターの山口猛が先客でいて、遠方に住む丸山昇一が後からやって来て5人で祝った。丸山昇一なんかは、脚本家と俳優の一対一で企画していた予定作品を抱えていた。つまり『ブラックレイン』が決まるということは、必然的に自分の作品は宙に浮くということだったので心中は如何ばかりであったろうか。とは言え4人は嬉しがる松田優作に呼応して素直に喜んだのだった。それはハリウッドに行けるとか、リドリー・スコット監督作品に出れるとか、誰々と共演出来るとか、そんなチャラチャラした理由ではない高邁な思いを知っていたからだった。前述の「或るドラマ」とは、テレビ朝日の『桜子は微笑う・ラストエンペラーに仕掛けられた怪しい女の罠』という松坂慶子とやった満州の宣統帝溥儀の話だったが、演出だった故久世光彦は「ちょうど『ブラックレイン』のオーディションと重なって、優作が落ち着かなくてね、心ここにあらずで全然気が入らないんだよ。オーディションでは『小林薫がライバルらしい』とか言ってね(笑)」と後年語っていたが、1本1本、コマーシャルフィルムにさえ過度に集中をみせる松田優作にしては、異常とも言える行動だったというしかない。
 1ヶ月半日が経った10月24日、1人で松田優作は「レディ・ジェーン」にやって来た。表情が少し硬くなっていた。2人で酒を飲み始めて、ハリウッド流初体験のことや撮影に向かう進捗状況のこと等『ブラックレイン』の話をさんざんした後、「実は膀胱に腫瘍ができてるんだ」と言った。俺が驚く間も与えずに「手術か映画か、どっちをとるかって医者に迫られているんだ」と言って、「どう思う?どっちをとれば良いか言ってくれ」と苛酷なことを言って来た。俺は返事に窮して「そこ迄進行してるのか、、、」と言いつつ、何処迄なのか内実は分からなかったが、彼の性格と『ブラックレイン』を足場にした「アメリカに風穴を開け」ようとする<日本映画界への犠牲精神>の話を多く見聞していたから、「そんなことを言ってるけど、自分じゃとっくに決めてるんじゃないのか?俺を試してるんだろ?」と答えたのが精一杯だった。数年前に「女なんじゃないのか」と女性性(ジョセイセイ)を決めつけた時に、パンチが来るかなと気持ちの防備をした俺を裏切るように、「何で分かるんだ」と自ら肯定したことがあった。その嫉妬心は周りの俳優たちにも持っていたが、アメリカ映画に対して、形而上学的に意味付けして嫉妬していたのだ。
 翌25日、『ブラックレイン』の製作発表が大阪で行われ、その席で松田優作は毅然と構えていた。そして3日後の28日にはクランクインをしたのだった。