Flaneur, Rhum & Pop Culture
夜空の祈祷師「サン・ラ・アーケストラ」
[ZIPANGU NEWS vol.69]より
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 1988年5月23日、東ベルリン体験の後、メールス・ジャズフェスティバルの2泊3日を加えて、ドイツ滞在都合10泊11日を終えた。あとは、パリとロンドンのショートトリップを残すだけだった。西ドイツのデュッセルドルフからパリまでは約1時間、あっという間の飛行時間だった。はじめてのパリだった。
 ドゴール空港から地下鉄に乗ってオペラ座の前まで来ると急に空腹を覚えた。周りを見渡すと、日本風の「オオサカ」という派手な看板が目に留まり、ベルリン及びメールスで一食も日本食を味わってなかったこともあって、引かれるようについつい入ってしまったのだが、後の祭りだった。いかにもお上りさんの日本人をくわえ込む構えのその店は、寿司屋だと見せておいて、天丼もありカツ丼もありうどん、そばの品揃えもあった。そうした総花的日本食の店は、今でも日本列島どんな街でも見かけるが、天下のルーブル美術館やコメディ・フランセーズの前に構えていたので、和食に飢えていたお上りさんの俺は見事罠にはまってしまったのだ。まずい寿司を平らげた後、さほど興味のないシャンゼリゼ通りを歩いて、超豪華な「ジョルジュ五世ホテル」を横目に、モンターニュ通りの裏路地に建つ「ホテル・ウエストエンド」にチェックインした。パリへ来たらまず散歩だろう。トランクの荷解きもそこそこに、往時の小説家や絵描きがたまっていた伝説の「フーケ」を出歯亀してみた。といったって、ひとり旅で花が咲く訳ではない。そうした時に決まってやることは酒場だ、とばかりに「ハリーズ・ニューヨーク・バー」に足を向けた。バー巡りは、バーのオーナーならば仕事上の一環として当然のことである。夕刻を過ぎたばかりの時間であるにも関わらず賑わいを見せてはいたが、ベルリンの「ハリーズ・バー」同様、言ってみれば西洋の居酒屋風であった。パリで頼むのも面白いかと冷やかし半分にマンハッタンを頼んだのだが、どういうレシピで作ったのか、3、4分で出て来たことからしてインチキに決まっていた。ベニスの元祖「ハリーズ・バー」や、その流れを汲むニューヨーク五番街の「ハリーズ・バー」とは全く出自が違うのだと学習した。
 翌日、ホテルを予約しておいてくれた浜田哲とサンジェルマン・デプレのタイ・レストランでディナーを食べながら、昼間タウン情報誌で発見した「サン・ラ・アーケストラ」に行こうと提案した。浜田哲はハナエ・モリのパリ支局長をやっていた男で、前衛ジャズの「サン・ラ・アーケストラ」など興味が無いのは分かっていたが、どうせ車で送って行くのだからと、たぶんパリ北駅方面だったと思うがパリ1番のライブハウス「ニュー・モーニング」に同行した。ランチでクスクスを食べた時に約束をしたもう1人の在パリの友人、故木立玲子とも待ち合わせをした。彼女はラジオフランス・チャンネル4のプロデューサーであり、お上りさんの俺に情報を教えられるなどへんてこではあったが、少々興奮している様子が伺えた。当の俺はというと、初の「サン・ラ・アーケストラ」生体験に脳内エンドルフィンは全開状態だったのは言うまでもない。そんな状態でコンサートが終わった。冷静な浜田哲運転の車に我々は同乗してセーヌ左岸に向ったのだが、途中サンドニ通りを通過した時には別の興奮が重なり、浜田くんも興奮して来て俺たちの車内は騒然となった。パリでサンドニと言えば分かる人は分かる有名な一角で、映画や写真では何回となく見てはいたが聞きしに恐るる一大娼婦街の光景、空前絶後と言うしか無かった。サンジェルマン・デプレで車を降り、家族持ちの浜田くんが家へ帰った後、「アート・ブレーキー&ジャズ・メッセンジャーズ」のライブ盤などで世界的なジャズのメッカとして知られる「カフェ・サンジェルマン」に木立玲子と入った。娼婦ばかりかラジオフランスなどはホモ王国だそうで、文化度に比例すると思っているフランス人の、そんなセックスのアブノーマル振りから移民政策まで話は止まず店は閉まらず、朝を迎えた。そして、彼女はもうひとつの一大娼婦地帯のブローニュの森にあるアパートへと帰っていった。
 レマルクの「凱旋門」の「フーケ」、フォークナーやスタインベックのパリのアメリカ人の「ハリーズ・バー」、土産に大量に買ったピカソの孫娘のパロマ・ピカソの口紅、ジャズキチの「カフェ・サンジェルマン」は、平凡なパリの2日間だが、「サン・ラ・アーケストラ」のことはつい自慢げに喋ってしまうのだった。