Flaneur, Rhum & Pop Culture
下北沢「佳月」の『遠州つばめ返し』
[ZIPANGU NEWS vol.61]より
LADY JANE LOGO











 1988年の松も明けない新年早々の1月5日、下北沢の割烹屋の「佳月」の20周年のパーティーがあった。場所は今はなくなったが当時ジャズのライブハウスのメッカだった六本木ピットインだった。何でまた魚料理屋の記念の祝賀会をライブハウスでやるのかということだが訳がある。カウンター6席と狭い小上がりのテーブル席2つの小さな店内には、魚を頬張りながら酒を飲み、酒をあおりながら口角泡を飛ばしているミュージシャンで夜な夜な盛り上っていたのだ。当時、俺が行くとまず知り合いのミュージシャン又は映画演劇界の誰かと会わない時はなかった。しかも皆顔を知られているような人たちだった。そこは安普請の造りだが、多分下北沢で1番値段の高い食いもの屋だったから、宵越しの金の心配をする人にはちと敷居が高かったのだ。
 ところが、一般の常連客にも「ご主人、というよりオッサン」と言われたり、「地道な修行してきたとは思えないような大将」と言われる始末の、ふぐみたいな顔をした(俺はもっとヒドイ、おこぜと言っている。因みにふぐよりおこぜが好きである)この店の主人は、もうそれだけで人柄が分ってしまうであろう。そんなおやじ高信健三と古女房の美子ちゃんがずっと2人でやっていた店だった。魚のことはプロで当り前だが、音楽や業界のことに目茶詳しい。よく喋る、声が大きい、毒舌を吐くの三拍子を黙って聞いている程、こちとら客側も阿保ではない。で、主客一致した協力態勢で佳月20周年の祝いを派手にやったのだった。ピットインのボスが客だから話は早いし、出演者は松木恒秀、村上ポンタ、ペッカー、高橋幸弘、土岐英史、吉田美奈子、ユーミン、井野信義と切りがない。最後に控えしが、当時「KYLIN」で世界制覇して「MOBO」を展開していた渡辺香津美だった。夕方6時に始まったライブによる祝宴が終ったのは深夜だった。
 その「佳月」は今は無い。時は経って07年の春、大病を患ったおやじは一時退院して店を再開していたが、それも束の間、再入院を余儀なくされ店をたたんで再び生死の境をさまようことになった。そしてその年の秋、皆の期待を裏切って再び娑婆の空気を吸いはじめたおやじは、1年数ヶ月後の現在料理の出張ディレクターやコーチで動きまわり、酒が旨いとのたまう程、憎たらしさも取り戻しているのだから厄介である。
 初めて「佳月」の暖簾をくぐった夜のことははっきりと憶えている。わが店「レディ・ジェーン」を開けた75年の秋の11月9日は、中央競馬の菊花賞の日だった。同じ三歳馬(当時は四歳馬)の春の皐月賞やダービーには馬券に縁が無かったが、菊花賞はよく当てていた。皐月賞は最も速い馬が勝つ、ダービーは最も運のある馬が勝つと言われるのに対して、最も強い馬が勝つと言われているのが菊花賞だからだ。馬は秋になって本当の実力をつけてくるので、人気に惑わされない穴馬が出やすいのだ。その年も人気薄のコクサイプリンスが勝って連勝馬券は5千5百円ついた。3千円買っていたから、投資金を差し引きしても15万5千円は持っていた。2、3年狙っていた「佳月」は今日しかないと思った。刺身の大皿盛合せを平らげ、いよいよ4人前の鍋が出てきた。「つみれから入れなきゃ駄目だよ!豆腐なんか後だよ!」と、当り前のことだが主人から叱言が飛ぶ。恐縮しながらも必死に食べる初見客の俺たちだったが、鍋の具が減っていってくれない。恐そうなおやじだが言ってみるかと俺。「あのう、食い切れないんで助っ人を呼んでいいですか?すぐ来させるので」初めから分ってたとばかりに、恐い顔をしながら「いいよ」と主人は言った。4人前を8人でやっと平らげるとは何て店だ。それから急速に常連になっていったのだが、音楽家の客はあがた森魚ぐらいしかいなくて殆んど旦那奥方衆だった。数年後のある夜「ギター持ったチビが仕込中に戸を開けたんだ。早えと言ったら又来たんだ」とおやじが俺に言った。それが渡辺香津美だった。溜り場前夜だった。
 ある佳月ファンが言った。「無くなって、下北沢を電車で通過ばかりしている」と。