Flaneur, Rhum & Pop Culture
モントルーで爆発した『クバノ・チャント』
[ZIPANGU NEWS vol.60]より
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 去年の暮、広島で『上々颱風』という極めてユニークなバンドのコンサートをプロデュースした。日本列島から世界から色んな音楽を拾い集めて、河原だろうが、山中だろうが、キャバレーだろうが、勿論ホールだろうが自分たち用に作り直して演奏をし続けている。しかもバンドのサウンド・カラーには非常に固執していて、尚かつ客サービス旺盛という芸能バンドである。再演を繰り返している和製ミュージカル「出雲の阿国」には無くてはならない存在である。昨年12月に関わることになったのは、デビュー当初の昔から興味を引かれていた上に、所属している会社のエム&アイカンパニーの連中を昔から知っているという縁があったからだ。昔といっても、下北沢に「レディ・ジェーン」を造った時からだから、34年前に遡ることになる。
 当時ユニバーサルという呼び屋会社があった。そこにエム&アイカンパニーを立ち上げた代表の一ノ瀬啓永はじめ沼沢力夫他数人の友人になっていった連中がいて、ユニバーサルが呼んだ外タレ(外国ミュージシャン)はいつも自由に観させてもらっていた。その会社は中々で、今思い出すだけでもカーメン・マクレエやマディ・ウォータースやアダモ、サラ・ボーンの時はパンフにエッセイを書かせてもらった。特に唯一の来日になったボブ・マーリィ&ウェイラーズのステージの印象は強烈だった。特にレゲェ好きでもないのに、中途で俺は金縛りになってそして涙が止めどなく溢れ出した。自分が感情をそう向けたのではなく、勝手に五感と五体がそうなってしまったのだ。連れの隣席の店のスタッフも同じ状態になっていた。憑依という奴だったに違いない。古澤良治郎が去年「レディ・ジェーン」ライブに出た時、そのことを言うと「俺もそうだった」と言った。俺は「やっぱり」と言った。
 81年になってユニバーサルは、マイルス・デイビスを呼んで伝説の新宿西口中央公園コンサートをやった。大病後のマイルスの音はスカスカ、会場は雑然としていてとても演奏に集中するような代物ではなかったが、ライブとはそうしたものだけではないだろう。俺はまさしく、ステージの上手から下手へ下手から上手へゆったり何度も妖怪のように徘徊するマイルスを観た。ユニバーサルも大きく出たが、マイルスの方が大きかったのか、暫くして会社は潰れた。85年俺は西麻布に「ロマーニッシェス・カフェ」を造り、一ノ瀬啓永たちは先の会社を立ち上げた。
 87年も押し迫った12月22日、ピアノの巨人レイ・ブライアントを来日コンサートで呼んだエム&アイカンパニーから電話があって、「ロマーニッシェス・カフェ」でライブをやった。ピアノ・ソロだった。彼のソロと言えば『アローン・アット・モントルー』だ。72年6月23日、伝説のモントルー・ジャズ・フェスティバルの出演を断ったオスカー・ピーターソンの代役として、レイに白羽の矢が立ったことは有名な話だ。千載一遇とは良く言ったものだが、ソロは演ったことが無かったがレイは意を決して出演した。そのライブ盤はもっと有名だ。期せずして彼を世界的にしたソロ・プレイは、母親の影響からかゴスペルに親しんだその味わいが色濃く出ていて、ゆったりと流れるジェントルなブルースは、誰が聴いてもレイ以外の何者でもない独自性を持っていた。
 当日、レイ・ブライアントはエム&アイの小千葉に連れられてやってきた。丁寧に頭を下げて握手をする姿に、世界のミュージシャンの驕りや、差別の裏返しからくる黒人特有の威圧的なところがまるで無かった。逆にそうした紳士的な物腰が、40年近く世界のトップにいる風格を感じさせた。ソロ・プレイはモントルーから15年経っていたが、同様のフレイジングが繰り出すジェントルで静かでいながら熱いプレイは、深いところで客を感動させた。こうした思索的なミュージシャンを日本人はより好んだ。そして言うまでもなく、人気の自作曲『クバノ・チャント』で最高に盛り上ってライブを終えた。
 エム&アイのIこと一ノ瀬啓永と『上々颱風』での2度目の仕事上の付き合いが、21年前の最初の付き合いを思い出させたというお話だった。