Flaneur, Rhum & Pop Culture
<ハミルトンビーチ>はタンゴを刻んだ。
[ZIPANGU NEWS vol.46]より
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 1985年11月、幾多の不安を抱えながら西麻布のテレビ朝日通りに開店の船出をした、シェフとサブ、バーテンダー2名、ホール2名にオーナーの俺と、店長無しの7名のクルーの「ロマーニッシェス」号だったが、強力な個性を持ったデザイン内田繁、壁タイル画黒田征太郎、照明海藤春樹といったクリエイティブ・スタッフが創り上げた飲食空間だったために、矢鱈と取材の申し込みが激しかった。商店建築誌、美術デザイン紙、飲食業界紙を初め、流行通信やプレイボーイ等の一般月刊誌と矢継ぎ早だった。

 そのことがどうしたかと言うと、集客に繋がったことは言うまでもないが、〈お洒落な〉内装に魅せられたらしい善男善女が、披露宴や会社の歓送迎会のパーティ申し込みに殺到したことだった。オープン当初のしかも年末の一過性なのかと思っても考えどころだった。パーティ・オファーを当に出した訳ではなくて、パーティ用スタッフの用意などなかったし、第一、一般の客が入って来れないようでは、目先の利益を得られることは有難かったが、長続きする店にはならないだろうと判断した。来年に向かって当初の計画通り、ライブを定期的に行うことで主張する店にいち早く手を付けることだった。

 音楽は1920・30年代に集約する。店頭や入口には往時のアヴァンギャルドな写真や造形をインスタレートする。冊子を月刊で出して好きなことを書く。雑誌のパブリシティ展開を受け身ではなく能動的に行う。ライブ・メニュー用の差し替え看板を新設するスタッフの意識改革を行う。音響工学の専門家の指導で吸音工事を行う。ミキサー始めPA一式を揃える。照明機具も吊る。グランドピアノを入れる。ほぼ、そんなことをラインナップして年明けの課題にした。又また予算オーバーのことを思い浮べると頭がドーンと痛くなったが、その分の申し込みを受けるままに受けて、来店したが入れなかった友人知人たちの激しい叱責を甘んじて受けるのだった。

 そこで当座手を出せるのは、バーである限りカクテルのレシピや特にオリジナル・カクテルだった。そのためには実務上と景観上に於いて、それがあるか無いかでは、カウンターが本格的に締まるか否かの重要な別れ目になると確信してしまった武器が、〈ハミルトンビーチ〉というバー・ブレンダー(ミキサー)だった。単なるこだわりと言われても取るに足らなくはなくて、その時使っていたブレンダーは、日本の大手家電メーカーのそれで我慢ならなかった。バー・カウンターは台所ではない。お子様のジュースを絞るのではない。プラスチックのパステルカラーの存在感の無さというか、周辺の奮囲気から浮いた代物はいち早く排除したかった。第一ミキシングしても保温度が悪くてまずい。きめ細やかに素材を粉砕してくれない。思ったフローズン・カクテルが作れない。

 83年の冬、ニューヨークのヘルムズレーホテルの一角にあるハリーズ・バーに入ったが、トレンチコートを脱ぐとノーネクタイが見つかり追い返された。頭に来たが宿泊の安ホテルに戻りタイ着用で再アタックしたのは訳があった。このハリーズ・バーはヴェネチアのハリーズ・バーの直の姉妹店で、パリやベルリンにある同名の店とは格が違う。世界に誇る桃のシャンパン・カクテル、ベリーニ体験をしたかったのだ。そのカウンターで目にしたのがハミルトンビーチだった。

 それなのに何処を捜しても無いものは無い。ハリーズ・バーに訊ねるよりなかった。やっと入手した夜、12月29日は最後のダンスパーティだった。ピカピカに光輝くステンレス製のハミルトンビーチが、カナロやデカロのクラシック・タンゴのエロチックで切れの良いリズムと威風堂々と渡り会う様は、何と頼りがいがあったことか。それは今も、下北沢「レディ・ジェーン」に勇姿をとどめている。