Flaneur, Rhum & Pop Culture
「煙草を喫う女たち」の顔と交換する
[ZIPANGU NEWS vol.45]より
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 1985年11月18・19日のレセプション・パーティで「レディー・ジェーン」の相棒「ロマーニッシェス・カフェ」号はやっとこさ船出した。<1920年代の光と影>をイメージ・コンセプトにしたと前々号で書いたが、20年代とは歴史上のある限られた時代を言うのではなく、或る先達も指摘した通り、圧倒的な流動の中の文化変革がもたらした事象と思想を指して<20年代>と言いたかったのだ。黒田征太郎に店内の壁二面に絵をお願いしたことも前号で触れたが、俺が同時に提出した<20年代>のこだわりに目を通して出してくれた答えが、20センチ角のタイルに描いた“顔”の絵が400枚だった。それは他民族や他国家間の人間が、坩堝の中で触れ合い融合した<20年代>を象徴的に表わしたスタイルだと思ったし、他人同士が集う摩訶不思議な場でもある酒場空間に似つかわしい、正しく<20年代>を現在に呼び戻したと錯覚させるのに充分な問題提起だった。後はお客の誘導部分や棚のそこかしこに、さりげなく或いはこれ見よがしに何がしかを装飾することだったが、それはお客を入れてみなければ実感出来にくいことだったし、店内の一部始終をあらかじめ決めても、店などというものは半分は客が作っていくものだと心得ていた。

 暮れも12月の半ばになった頃、20年代やそれを喚起させる古い時代の写真を捜し歩いていた。今名前が思い出せない銀座の洋書専門店や紀伊国屋書店を廻っても成果ゼロだったが、原宿のギャルリー・ワタリでフォトポッシュという葉書サイズの写真集シリーズを見付けた。アンドレ・ケルテスやハンガリー出身でロバート・キャパの先輩のブラッサィ、アメリカの偉大な写真家アルフレッド・スティーグリッツのそれだった。勿論圧倒的に有名なマン・レイのヌードの背中にヴァイオリンの曲線を書いた写真もあったが、今ひとつ手応えが無かった。或る日、銀座のプランタンでPPS通信社が主催で写真展をやっていた。貼示された写真はどれも高価で入手など不可能だったが、受付の隣に古い海外の写真集が置いてあった。その1冊をめくると、写真そのもののインパクトより、往時を象徴するグライダーや飛行機や大型ライナー、自動車レースの模様が生き生きと写し出されていて、「未来派」を想わせて魅了された。良家の坊っちゃまが両親から買ってもらった高級玩具のカメラで遊びまくっているような赤裸々さが好きだった。写真家はジャック・アンリ・ラルティーグといった。フランス版のそれを手に入れるや、他にも欲しくて貴重な教科書だった現代思想の<1920年代臨時増刊号>の執筆者の連絡先を調べて、「ラルティーグのことですが・・・」などと図々しく電話をしたりした。多木浩二教授は俺に「煙草を喫う女たち(シガレット・ウーマン)」という写真集の存在を教えてくれた。オリオン図書出版を水道橋に訪ね、偶然「ロマーニッシェス・カフェ」にやってきたPPS通信社の女性編集者を他所のバーに誘い出して、根掘り葉掘り聞き出したりした。その効あってか遂に某所より入手することが叶い、俺は飛び上って喜んだ。

 百人の女性が煙草を燻らす顔が百態だった。同時代の女性で言うなら、ファッション界の女王シャネルやフラッパーの代名詞ゼルダ・フィッツジェラルド、ディートリッヒと入れ替えのようにアメリカからドイツに輸入されたルルことルイズ・ブルックス、映画「夜のタンゴ」の主演、主題歌を歌って、ヴァレンチノの最後の恋人といわれたポーラ・ネグリ、あのグレタ・ガルボだっていた。そうした時代のヒロインではなく無名の女たち、特権的な女たちではなく一般の女たちが煙草を喫っていることに、写真集の意味を見つけることが出来たと感じた。黒田征太郎の描く顔たちと、ラルティーグの撮った顔たちは、60年の時空を越えて交信していると錯覚したのは俺だけだったのだろうか?