Flaneur, Rhum & Pop Culture

逢魔が刻は1985年11月2日
[ZIPANGU NEWS vol.44]より
LADY JANE LOGO











 1985年の秋、「ロマーニッシェス・カフェ」開店にまつわる下らないあれこれを書き連ねて前々回、前回ときたが、今回もその続きを書く。下らないのはエッセイを読む皆さんの思いであって、筆者にとってはそれほど下らなくないのではと思っている。

 内装も基本的な個所は出来上がっていたが、あれ程、論を尽くしたデザイナーの内田繁とのケンケンガクガク構想を経てきていたにも関らず、視覚的に具体的には判っきりとしたイメージが掴めずにいた。そんな11月2日のことだった。店を構想して開店に至る4ヶ月間の中で、11月2日のことは殊更に思い浮かぶ。内田デザインの中でも、重要な要素を占める店内の壁面の絵を、黒田征太郎に描いてもらおうと彼と俺とで依頼して、どんな発想を持ち込んで来るものか恐恐として待ち望んでいた。黒田征太郎が考えついたのはタイル画だった。20センチ角のタイルに黒と白の地色を塗って、それもイタリア産のタイルでないと色の乗りが悪いといって取り寄せて、多治見の志野陶石の現場で絵付けして窯で焼いたという作品だった。それも半端な数ではない。人の顔の絵が四百枚四百色のタイル画だった。

 11月2日は、焼き上がった作品の荷が届く日で、ほどいて床板に並べられたその四百枚のタイル画が、壁面に立ち上がるのを想定して黒田征太郎が、チェスの駒を動かすように配置デザインする日だった。黒田征太郎がアシスタントを同行してやって来た。現場で迎えたのは、内田繁、工事現場の監督と主任、俺の他計7名位だった。黒いトレーナーを着ていた。実際の作業をする訳でもないのに戦闘モードに入っていたかのようだった。笑顔は一切無しで手短かに挨拶を済ませると、早速実行に掛った。ガランとした内装現場空間は静寂に包まれて、黒田征太郎がテキパキと出す指示に従った、アシスタントが置き替える床板の音と、時折り怒声になる指示の声が、緊張を高めた。内田繁が紅潮してきたが黙していた。俺はもっと紅潮してきたが勿論黙していた。-長い時間が経った。最後の一板が床に置き替られた瞬間、打ち合わせてあったかのように一斉に拍手が起った。リングに上がったボクサーが試合を終えた時の拍手のようだった。皆が黒田征太郎に握手して、俺は店が出来たと腹の底から実感した。

 自宅の妻に朗報を伝えようと思ったが、麻布台の飯倉交差点にあるノアビルの地下に入っているフレンチ・レストランのレジャンスに、オープニング・スタッフのシェフ候補と料理の勉強に行かせたのを思い出して止めた。そこで、現場で立ち会っていた店長候補の安田を連れて、内田繁が内装を手掛けて半年前にオープンした(俺の嫉妬を多少は買った)バー・ル・クラブで乾杯することにした。すると何と、同じく現場で立ち会っていた内田繁夫人の三橋侑代と助手のデザイナーの真保が、先客となって祝杯を上げていたのだ。先刻まで現場で立ち会い最後を見届けた者として、施主であるとか、デザイナー・サイドであるとかを越えて、実感した心情は共通だったのだと思うと熱いものが込上げてきた。4人で改めて乾杯して、内田繁デザインの店とするなら姉妹店というか呉越同舟店というか、“一緒に祝え”と、マスターの斉藤耕一も巻き込んだ。と、そこへ「レディ・ジェーン」のスタッフから居場所を聞いた松田優作から電話が入った。だが、こんな緊張ある喜びの場を、来いと言われてもすぐさま去れるものではない。

 そして、概ね1時間半後、「レディ・ジェーン」の近くの小笹寿しを訪ね、「お待たせ」と入るや、2席奥のカウンターに内田繁が居て、鮨をつまみながらやはり祝い酒をしているではないか!

 こうしたダラダラを書いても独り善がりは分っているので止めるが、長い1日の信じ難い逢魔ヶ刻の一巻が、正しくあったとはお目出たい話じゃないか。