Flaneur, Rhum & Pop Culture

名付けて誇大妄想狂カフェ
[ZIPANGU NEWS vol.43]より
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 1985年秋、「レディ・ジェーン」が10周年を迎え終えていたので、第2子を作ろうと悪戦苦闘していた。人選したオープニング・スタッフを集めて先達の店を訪ね歩いて実地見聞するかミーティングの毎日が続く中、大事な大事な屋号のことで頭を悩ませていた。

 だが最初から<1920年代>というコンセプトで行こうと決めていた。それは20年代というたった10年のディケイドに、あらゆる現代の都市文化や生活様式が詰め込まれて誕生したと確信していたからだ。つまり、ロートレックは絵画を芸術の世界から、ムーラン・ルージュの舞台のポスターという広告宣伝絵画の先鞭をつけ、ドイツではバウハウスという今日にとっては偉大なデザインや建築の漸進性を学問で体系づけた学校が生まれた。ライナーと呼ばれた大型汽船の発明は、ヨーロッパ人を大西洋を渡るアメリカ行きの航路に遊ばせ、逆にアメリカからは圧倒的に風俗文化を席巻していたジャズを移入した。パリやロンドンの都市生活者は、ホテルを宿泊だけの空間からナイトライフを楽しむ食事のためのホテル、カクテルを飲むためのホテルに変貌させて、リッツやサヴォイでは、アメリカから渡ってきた異文化のジャズ・バンド演奏に悦に入った。新たな空気に触れた黒人たちは意気揚々と演奏し、この20年代がウーマン・リベレーションの走りだと自認しているが、着飾って外出した女性が初めて手にする煙草をくゆらせながら、グラス片手にステージを楽しみ始めた。第一次大戦と第二次大戦に挟まれた時代で、ロシア革命が起った直後の経済的には極めて不安定な時期に、異文化を取り入れた世界の都市は爛熟した。つまり、国境や人種性別の差を取っ払った融合の瞬間がここにはあったのだ。ニューヨークはジャズ・エイジと呼ばれてフラッパーが踊り狂い、海を渡ったヘンリー・ミラーやヘミングウェイは、ピカソやアナイス・ニンとアブサンを飲りながら激論するモンマルトル文化を謳歌し、東京もやはり大正アナーキズムの下で、モボ・モガが闊歩するカフェ文化とエロ・グロ文化を育てていた。

 中でも特に魅了されたのが、隣国の革命の影響を受けたユダヤ人を中心とする東ヨーロッパのボヘミアンたちが、大量に雪崩込んだ1番東寄りの西ヨーロッパの都市ベルリンだった。ロシア・アバンギャルドの革新性がドイツ表現主義と混じり合い、人種の坩塙と超インフレのワイマール政権下で、他都市を圧倒する過激の極みの文化を日夜創生していたからだ。イッシャーウッドの「キャバレー」やブレヒトの「3大オペラ」を思い起こせば容易に推測がつくのではないか。

 当時のベルリンで酒場文化をリードしていたのが、クーダムの中心にあった「ロマーニッシェス・カフェ」だった。例えば白人の男が不安になる程白人女は色の浅黒い東洋の男に魅かれ、薄もののドレスをめくって足を投げ出し、ギムレットを口に運ぶのだ。フランス料理を食べながら舞台の黒人ジャズ・バンドを聞く。客席を娼婦が神々しく歩き廻り、そんなことには目もくれぬ客番長格のマックス・スレーフォークトやゲオルク・グロスは、別室で作戦会議を繰り拡げるのだ。そんなアナーキストとダダイストと左翼の混在した魔の巣窟に、1日中居るものだから、コーヒーの強請おかわりの注文に怯えていた16歳のロバート・キャパや、ハンガリーから抜け出して来た少年ビリー・ワイルダーが、明日の保証など一切無くて上目遣いに座っていたのだ。想像するだけ惑々するではないか。

 かくして、絶対に新しい店の屋号は「ロマーニッシェス・カフェ」にすることにした。「ロマーニッシェス・カフェ」は別名誇大妄想狂カフェと言われた。こんな歴史上に偉大なカフェの名を盗む誇大妄想も、仲々当を得てるではないかと強引に納得するのだった。