Flaneur, Rhum & Pop Culture

新しい子作りに励むの段
[ZIPANGU NEWS vol.42]より
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 1985年8月3・4日に坂本長利の一人芝居「土佐源氏」のエジンバラ国際演劇祭招聘壮行公演は終えたが、その直前の7月半ばに、山下洋輔の事務所ジャムライスの当時の社長の岩神六平から、「いい不動産屋があったので紹介する」という電話があって、その六本木にある不動産屋に出掛けたことがきっかけで、大変な身の上になっていったのだった。「レディ・ジェーン」が10年目を迎えようとしていた前年から2店目の物件を捜し始めていて、下北沢を初め渋谷、原宿、青山と気に入ったものが無くて、話が舞い込んで来たら覗いてみよう位の気持で、諦めかけていた頃だったので何の期待もせず出掛けた。所が話が舞い込んで来たのだ。不意を突かれたが瞬く間に直感が働いた。現場はテレビ朝日通りに面していて、テレビ朝日の対面の西麻布のビルの地下1階、35坪の新築物件だった。知己のインテリア・デザイナーの内田繁に現地から電話を入れるとすぐ来てくれた。かねてから「レディ・ジェーン」や何処かしこで飲みながら「2店目は是非内装してよね」と口約束を交していたことと、5月に知人の斉藤耕一が俺に先んじて、内田デザインのバー・ル・クラブを出していた口惜しさもあったかも知れなくて、もたついていた己れを叱咤したかったのだろう。即断した。

 8月1日は仮契約書にサインした。内田繁とはインテリアの話に行く前に、わが心構えやバーやカフェの思想構想といった内的な意匠を聞いてもらい、且つ異論反論を喋りあいつつ、圧倒的な手持ち資金不足から、苦手な事業計画書なるものを作成して、融資先との話を1日も早く決着つけねばならないのだった。個人の力からすれば度を越した規模に、崖っ淵に立った心境だったが、そういう時は前だけ見ていた方が良い。しかも姐さんの「レディ・ジェーン」は店内改装中で、8月9日の新装開店の準備で大あらわの最中に「土佐源氏」公演をやったのだ。どうしてそんなことが出来たのか不思議だが、当時の手帳にはそう書いてある。おまけに愛煙家と激飲家が崇ってか、その頃持病だった肋膜に穴があいて体内の空気が入る気胸が再発していた。肺気腫に成長してはやばいと、レントゲンと血沈検査を行いつつ、「土佐源氏」の公演場所の佐賀町エキジビットスペースのオーナーの小池一子に胡麻をすろうと、不用になった大型冷蔵庫を無理矢理プレゼントしようとトラックで下北沢から運んだ。その甲斐あって?彼女にご馳走になった深川の中華料理店キッチンフー虎は、その縁でその後も何回となく客を繰り返すことになるのだった。

 さて前だけを見た開店計画だが、9月初旬本契約と最終図面を完了した。工事着工は25日、開店を10月25日に決めた。人が招く空間を成立させる要件には様々な必要条件がある。料理やカクテルの味、内装や調度品の美、音楽や料金システムなどなどだが、これらは必要条件であって、その必要条件を十分条件にさせるのは人だという自論がある。人がすべてに条件を与えると思っているから、人捜しには余程注意を払うのは当り前だ。俺のカクテルの師匠だと言っても良い、この7月にバーマン40周年&還暦パーティを大々的に行った毛利隆雄を、当時の麻布狸穴のガスライトに訪ねた。それと個人的な性癖でもあろうが、屋号には相当こだわってしまうのだが、これらそれがどうしたは次号に廻す。
日頃の音楽や映画に関して言えば、幾ら忙しいとも毎週の店ライブのブッキングの他に、ノイバウテンが後楽園に来れば行ったし、井野信義&レスター・ボウイは草月ホールだった。立ち上げにちょっと関与した森田芳光の「それから」のプレヴュー試写が渋谷東急であって、主演の松田優作一行が「レディ・ジェーン」を帰って行ったのは、翌朝9時をとうに過ぎていたのだから鍛えられる訳さ。