Flaneur, Rhum & Pop Culture

句会ではありません。音楽会なのです。
[ZIPANGU NEWS vol.40]より
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 1985年「レディ・ジェーン」の10周年アニヴァーサリィを終えた2日後の2月6日は、西荻窪のアケタの店で森山威男のライブだった。

 ところが夕方まで熱が下がらず夜になると39度を越える程になったが、当人と約束した手前迷いに迷ったが出掛けた。開演の直前にアケタに着くと、何と当時あり得ないかそれに近いことだと思うが満席の立ち見だった。客席を見ると若いお客がずらりといた。森山威男の東京芸大の恩師が生徒を20数名連れて来たのだと知ったが、いずれにしても立ち見だった。熱と悪寒でブッ倒れそうだったが、カルテットの一部が終るとそれが不思議と引いていた。二部が終ると平熱に戻ったと自覚できた。それで森山威男に誘われるままに2人で居酒屋の庄やに飲みに行った。

 音楽が身体に及ぼす力を信じられた貴重な体験だった。このことは「レディ・ジェーン」のライブを続行させていく上で、目に見えない支援となった。店の改装の打合せをしていると、元「劇衆椿」の俳優で当時渡辺えり子の劇団300の宍戸究一郎が、バイト先のコカコーラのコンプレッサーに抑圧されて死んだ悲報もあったりしたが、4月に企画していた本多劇場での第3回目の自主企画イベントにはずみをつけてくれた。

 4月17日・18日の2日間の題して「TOKYO HIGH-KU MEETING」(トーキョーハイクミーティング)の準備に追われていた。1日目のタイトルは「NOISE OF WATER」(ミズノオト)で内容は、“2人のサックスと2人のドラムス”としたのだが、井上敬三師、坂田明、森山威男の3人は決っていて、あと1人のドラマーは村上ポンタ秀一だったのだが、スケジュールのチェックミスが派生して、やっとこさ邦楽の師生仙波清彦に落ち着いたばかりだった。

 2日目のタイトルは「HENKA」(ヘンカ)。こちらも“2台のピアノによる4人のピアニストの即興”と決めて、加古隆、高瀬アキ、橋本一子と決っていたがあとの1人が未定だった。世はテクノ音楽で渡辺香津美の「MOBO倶楽部」などが一世風靡でブリブリ言わせていたが、ディヴィッド・マレイVSジョン・ヒックス、アート・リンゼイVSジョン・ゾーン、高橋悠治VS J・ゾーン、高橋悠治VS三宅榛名等々、スタジオ200やらテイクオフ・セブンやら都内各所の実験ホールで、デュオ・シリーズが展開されていた。デュオ・シリーズなら空間的制約から発想されていったとは言え、80年当初から展開してきた先達意識があった。4人のピアニストだってデュオ×2乗だと考えれば良いだろうと、4人目のピアニストに現代音楽の作曲家の高橋悠治を指名した。

 両日のメンバーは全員「レディ・ジェーン」でのデュオ・シリーズは何回か体験済みだったが、高橋悠治は初めて声を掛けた方だった。J・ゾーンとやったり、コンピューターを使ったりは聴いていたのだし、当時組織していた「水牛楽団」は、アジアの民衆の側からの歌を取り上げていた姿勢にも多いなる共感を持っていた上でのオファーだった。実は快諾をもらった後に、事務所の担当プロデューサーがやたらと言って来たことのひとつに写譜の件があった。俺が初めて接する世界の人だったからだろうか、手続き上即興にもこの世界では写譜が必要なのかと瞬間錯覚して、話がこんがらがったことを苦笑まじりに思い出した。

 ついこの4月、東京-広島間の5ヶ所でサックスの姜泰煥とデュオ・コンサートをプロデュースしてきたばかりなのだが、旅中この「HIGH-KU MEETING」のことを思い出し笑いしていたことは言うまでもない。それはタイトルが<俳句>なものだから、新聞各紙で読んだ全国の結社や愛好会から数々の問い合わせを受ける破目になったことだ。

 タイトルを面白がって掲載した新聞記事を、感違いして連帯の挨拶を送ってくることにはニタリとしたが、裏に秘めた意図を思えば、それは感違いではなかったのだ。