Flaneur, Rhum & Pop Culture

『空中浮遊』する内と外
[ZIPANGU NEWS vol.28]より
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 1983年10月29日、「竜二」という映画が封切れた。このチンピラヤクザの生き甲斐を描いているが、抗争が一切出てこないハードな青春映画は観客に圧倒的に支持された。主役にこだわり続け、それなら自分でホンを書いて主演すれば良いじゃないかと、それを実行した男金子正次が、原作・脚本・主演自主制作作品が、どうしてそれ程映画界を揺るがしたのか、不思議といえば不思議だったが、そこには類稀れなる私的こだわりに満ちた映画的感動が溢れていた。即ち、83年度のキネマ旬報第6位、日本アカデミー賞新人賞、ブルーリボン賞新人賞、シティカード・ベスト俳優3位、映画芸術特別演技賞、毎日映画コンクール新人特別賞と獲り続けた。

 翌84年1月29日は横浜映画祭当日だった。松田優作は自分が絡んだ作品は出品してなかったはずだが、「竜二」の映画制作の過程で、心からの支援を続けていた彼は横浜映画祭に出かけた。その夜、審査員特別賞、自主制作映画賞を受賞した「竜二」組一行―竜二の女房役を演った女優賞の永島暎子や監督の川島透たちが、松田優作に率いられて、まさか横浜から「レディ・ジェーン」にやって来た。ところが、肝腎要めの主役金子正次はいなかった。封切り直後の前年11月6日に、公開を見届けるや否や、病に勝てず亡くなっていたからだった。それ故、横浜映画祭帰りの一行は、受賞した晴れの気持ちと主を失った弔い合戦的な苦い思いが、複雑にからみ合った熱量を帯びていた。

 金子正次は映画制作中、松田優作に連れられて、「レディ・ジェーン」に数回はやってきた。身体に大いなるマグマを貯め込んで吐き出せない、その苛立ちも五感と皮膚に露わにしていたが、映画「竜二」とほとんど同質だった。そんな危うい神経を支えて、表現の領域まで上げていったのは、彼自身の嗅覚鋭い美意識の有り方だったのだと思う。その辺りは、生江有二が著したドキュメンタリィ「竜二」に詳しい。

 話を戻して1月29日、一行が来店したのは9時過ぎ頃だったと記憶するが、その夜はまだライヴ中だった。しかも立ち見が出るほどの満杯で、近夜等則のソロ・ライヴだった。入れる余地はまったく無かったし、余地があったとしたらどうだったという問題ではなかった。

 近夜等則ライヴは83年の夏が初めてだった。当時近夜等則大楽団からチベタン・ブルーエアーリキッド楽団のコンサートを展開していた彼に、出演依頼すると快諾だったのでさっさと決めた。その日もソロだった。一曲終えるとクーラーがうるさいのできってくれと言った。クーラーを切って二曲目を終えると、次は換気扇の音がうるさいので切ってくれときた。外は熱帯夜。ライヴが終ると満杯の客全員が汗を洪水のように流していた。本人も当然水中浮遊だったがそれは自業自得だ。

 人となりを知るに十分な体験の感動的ライヴ・プレゼントを頂戴した後の、二度目のライヴだった。先述したそんな状況下に見舞われながら、「ライヴを止めようか」と一流の辛口ジョークを飛ばす松田優作と一行10人をなだめすかしながら、主人たる俺の取った采配、いや窮余の策は当然であったが、ここでは紙面がないので語らない。店内では新譜アルバム『空中浮遊』に収めた『楽・楽々』や『七拍子』が、いともチベタン的軽快に鳴っていた。俺が空中浮遊状態に追い込まれたというのにだ。11月6日は知る人ぞ知る日、その伏線の如き、1月29日は必然という名の偶然が重く重なった一夜ではあった。