Flaneur, Rhum & Pop Culture
ブエノスアイレス午前零時
[ZIPANGU NEWS vol.123]より
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 今年の3月6日から13日まで、タンゴバンドのツアーをやった。ヴァイオリンの柴田奈穂率いるラストタンゴというバンドの初CD『LAST TANGO』(ZIPANGU)を、去年プロデュースした縁で、去年のレコ発ツアーには廻れなかった関西以西の楽旅だった。江森孝之のギター、西村直樹のベースにバンドネオンでなくて田ノ岡三郎のアコーディオンという楽器編成だが、楽器云々ではなくて厳密にはタンゴバンドではない。バンドタイトル曲の『ラスト・タンゴ』からして柴田奈穂のオリジナル曲だし、メンバーの書き下ろし曲もある。日本人が<タンゴ>に枷を嵌めても窮屈になるし自由を失う。だからといって、ピアソラの『五重奏のためのコンチェルト』をアルバムの最後に持ってきたり、コンサートでの重要な一曲に置くほど、ピアソラへの傾倒振りは生半可ではない。バンドにはヴォーカルがいて、マヤンが歌うピアソラの代表曲『チキリン・デ・バチン』や『ヨ・ソイ・マリア』には日本語の朗読から始まるヴァ−スを付けていて、聴く人の感情の水先案内人になったり、演者自らの感受性を高めたり、自分たちで斟酌したオリジナリティある<タンゴバンド>とも言えるのだ。
 1992年7月5日、アストル・ピアソラが死んだ。金大煥と吉沢元治(共に故人)のライブをやった、俺の47歳の誕生日の2日後だった。海外の反応は知る由もなしだが、日本では一切がそよとも揺れなかった。翌日の新聞に3行死亡記事が出ていた。84年の来日、そしてミルバと来日した88年から4年経っていた。その間、お茶に水の南米専門店に行っても2,3枚あるくらいの扱いで、入手済みの『ライブ・イン・ウイーン』やジェリー・マリガンとの共演盤『サミット』、絶品の『タンゴ・ゼロアワー』などを、特別な音楽の贈り物として聴いていた俺は、気持ちの持って行き場がなくて無性に腹が立った。悔しかったのは勿論ピアソラの死への哀悼だったが、それほど人に取り憑いてたった10年、否正確には8年ほどの短命に終ったことの自分への怨みだった。尤も、タンゴの店にピアソラの来日公演のチラシを持って行っても、「うちには置けませんと断わられた」と関係者が愚痴っていたくらい、当時のピアソラ評価というか、異端児扱いされていた状況にも怨みがあった。せめて、クラシックのチェリスト、ヨーヨー・マがピアソラ・ソング『ソウル・オブ・タンゴ』を出したのは快挙だったのと、プグリエーセとの1989年のアムステルダムのライブ盤『ファイナリー・トゥギャザー』が、1993年10月リリースされたのが少なからぬ慰めだった。
 1994年10月になって、ダニエル・コランとパリ・ミュゼットがやってきた。東急文化村シアターコクーンで3日から6日のうち、5日、6日の後半はタンゴの『モサリーニ&アントニオ・アグリ五重奏団』が出演する変則プログラムだった。云わば『五重奏団』は、マヌーシュ・スイングやシャンソンを演奏して人気のあるミュゼットに混ざって来日した印象だった。俺は当然、タンゴが混ざった5日の夜に行った。ダニエル・コランとミュゼットは、高度なテクニックと心温まる、人生の落ち着く音楽で良かったが、『五重奏団』は衝撃的だった。アグリは一時期のピアソラ・バンドを支えていたヴァイオリニストだし、モサリーニもパリでピアソラと共演していたと聞いていたが、そんなものじゃなかった。曲目は殆どがピアソラ曲だったが、ある傲慢さも含めて一気に破壊的終末に持ち込んで突き放すピアソラのエナジーと違って、モサリーニのバンドネオンと五重奏は、蒼然としたピアソラ・ワールドに引かれた悲しみの官能とも言うべき、一本のロープを高度な緊張で綱渡るのだ。特にピアソラの大曲『タンガータ』は魂が吸い取られるほど震えた。アンコールの『アディオス・ノニーノ』ではついに我慢出来なくて感極まった。一曲前に共演した小林靖宏ことcobaは、カーテンコールでモサリーニに名前を連呼されても、舞台袖で泣いていて出てこなかった。
 その深夜偶然に、NHKドラマの音楽のことで脚本の筒井ともみと演出の吉村芳之から相談を受けた時、音楽は『五重奏団』だ!と直感して、「明日の夜、シアターコクーンに行けば話を通しておくから」と言って、招聘元のカンバセーションの芳賀詔八郎に電話を入れた。1995年、NHKドラマ『水辺の男』の放送があり、全編に主人公の絶望の心に寄り添う「モサリーニ&アグリ五重奏団」の新感覚タンゴが流れた。
 1995年、芳賀詔八郎はピアソラ没後5周年に「オルタナティブ・ピアソラ」と題したフェスティバルを企画した。モサリーニがピアソラ復活の火付け役だったのだが、1992年、ピアソラが亡くなって、彼がパリにモサリーニを訪ねた時のエピソード、「コンサート会場に客は俺一人だったよ」と聞いて俺は<タンゴの罪>を思った。そんな芳賀詔八郎も2010年5月14日、肺炎で逝った。