Flaneur, Rhum & Pop Culture
歌舞音曲を謳っていて良いのでしょうか!?
[ZIPANGU NEWS vol.119]より
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 2013年が暮れて2014年の年明けだ。本来新年の喜びを寿ぐべきだろうが、広島から上京して東京に住んで50年、前年の残したものがいちいち厭だ。どうでもよかった東京オリンピックは積極的に厭になっている。神宮の森も壊されようとしていて厭だ。築地移転はなおさら厭だ。国は国で12月になって、戦後最悪の特定秘密保護法を強行成立させたアベノミクスは、土建国家で景気が向上したからやるのか、景気を向上させようとして無理にやるのか分からない。景気を向上させると誰のためになるのかも分からない。連日国会の証人喚問で5000万円の授受で嘘の連鎖を繰り返す都知事のこそく振りは分かるけど、そんな輩が都知事で良いのか分からない。434万票を投票した都民のことを思うと恨めしい。厭世思考がますます募って引きこもる。
 1991年の年明けは、ワルシャワ条約機構が解体して、十幾つのソヴィエト傘下の自治体が「独立国家共同体」を宣言するに及んで、秋になるとゴルバチョフ大統領自らソビエトを解体して退いた、世界の大転換の年だった。にもかかわらず日本では、どなた様の神殿かと見紛う新都庁舎が1600億円掛けて立ち上がり、おらが広島では、アジア大会に向けて再開発を急いでいた、新交通システム(アストラム・ラインというモノレール)建設現場で鋼鉄製の巨大橋桁が落下して、23人が犠牲者となった。半年後の6月には、98年長野オリンピックの金塗れ誘致に成功したJOC委員長の堤義明は、1兆5000億円の利権を私物化して、長野の山を切り崩してリゾート開発につぎ込んだ。ついでに言うと、その年のプロ野球は西武と広島が日本シリーズでぶつかり西武が優勝した。市民生活は窮々とし始めて、大体バブルが崩壊したことに気がつかなかった訳で、日本の政財界はこの国を今日まで30年以上も泥船に乗せていて呆れる。翌1992年の年明け早々はソ連の影響を受けたユーゴ連邦が解体した。国内では阿部元北海道・沖縄開発庁長官が「共和」から8000万円の収賄で逮捕されたかと思うと、2月竹下政権下、ぞろぞろと党派を超えた代議士達の佐川急便汚職事件が発覚した。今の世相と恐ろしく何も変わってないのだ。
 1992年1月7日は新宿ピットインの閉店日だった。正しくは再開発で移転のための閉店だった。1965年12月25日に開店したというピットインはジャズの街新宿で、ジャズシーンを牽引する形で今に継続しているが、不思議に記憶から遠い。ライブじゃなくて唐十郎の状況劇場がやった『腰巻きお仙』は強烈に思い出す。そうなのだ、縁劇青年だった俺は67年以降は特に芝居に熱を入れあげて時間を使っていたのだ。でも、ベースの荒川康男とピアノの佐藤允彦のデュオやサックスの高木元輝、ドラムの富樫雅彦などタローでのライブ体験のことはよく憶えている。当時ピットインよりタローの方が好きだったのだろう。ピットインなら後にできた姉妹店のニュージャズ・ホールの沖至なんかの方に印象が強い。何てったって、バケツの水にトランペットを沈めてブグブグと演奏するのだ。おっと、1973年頃だったか広島の福屋デパートの◯◯年祭イベントで一緒になった小杉武久の「タージマハール旅行団」を観たのも最初はニュージャズ・ホールだった。ところが92年に閉店したピットインは多分77年か78年に初代から移転していたはずで、一番通ったというか勉強させてもらった店だった。店長だった<カイブツ>をニックネームにする龍野治徳の歓迎振りも多いにあったおかげだ。
 1975年1月に開店した「レディ・ジェーン」で、4年目を迎えようとしていた78年の秋ライブをやる気になっていた。下北沢で地域密着型の音楽祭「下北沢音楽祭」を立ち上げようとする話が持ち上がっていた理由もあった。音楽を聴かせる店の店主が只5人集まって、イベントの素人が何千人規模の音楽祭をやろうというのだ。聴く側一辺倒だった者がいざライブをやろうとしても、ミュージシャンの迎えようを知らないし、ブッキングの仕方も分からない。そこで、独学の場に選んだのが丁度2軒目のピットインだった。1992年1月7日、「渋谷毅オーケストラ」が最後の夜を咆哮した。浅川マキが俺の横にいたよ。
 “世相が悪いとか景気が悪い時には<ジャズが流行る>”などと嘘を言われその気になった時代もあったが、2014年が美しい年だなどと誰にも言わせない!が、だからといって、怨歌だけを歌う訳にもいかないよな。