Flaneur, Rhum & Pop Culture
M・DやS・Tの外でよく死ぬ「ジャズ」は誰なのか?
[ZIPANGU NEWS vol.115]より
LADY JANE LOGO











 8月6日の原爆忌を翌日に控えた5日、新幹線で広島に行こうとプラットホームにいると、田中泯から電話が入った。或る黒人ピアニストに関することだったが、さて俺如きに何の相談があるのやらと、その課題は二日間のヒロシマ体験に微妙に絡まりあった。そして帰京後一週間がたった8月15日、都内で第一回目の「セシル・テイラー・プロジェクト」の会合だった。
 セシル・テイラーは世界にミュージシャン多しと云えど、最大に緊張を強いられるミュージシャンかも知れない。1973年の初来日時は見逃したし、2007年に東京オペラシティに来た時も行かなかった。当時世界的な実験音楽を毎年シリーズ化していた1988年の「トーキョー・ミュージック・ジョイ」に行った限りだった。この時に田中泯は別日別場所で共演している。それでもレコードは何十年も聴き続けているし、ベルリンに住む高瀬アキから共演した際の報告を受けていた。初来日時にソロ・レコーディングした時には8時間の練習をしたらしいし、2007年には山下洋輔と二日間もリハーサルをやったというから、音楽(即興音楽)の創造に向かう時、自身がよく多言する音楽の<構成>上、リハーサルがどう音楽の要件に関わってくるのだろうかと思っていた。
 韓国のサックス奏者姜泰煥は、来日ツアー中、毎朝5時には起きて練習を欠かさないのだが、何をやっているのかと言うと、呼吸と舌の鍛錬なのだが、更に重要なのは 作曲ということらしい。つまり、日々の練習で生まれた多くの、湯水のごとく<作曲した曲>が、即興演奏の中に瞬間的に絡み合っていくことで、更に<作曲された要素を作曲>していくことなのかも知れない。「音楽を構成する要素には三つある。」というセシル・テイラーに言わせれば、「音楽には感覚の訓練と同時に、語ることが、また四肢の腱を訓練することが大切」で、「それぞれの文化には独自の記譜法が存在している」が、「記譜することはひとつの論理的行為である。自分の心の中に音楽があり、樹木の中に、川の中に、山の中にあり、霊性の中に属している。完全に何ものにも属さないフリーということはない」と。そして「遠い祖先からやってくるものが、私の音楽にいかに現れてくることか」ということに帰結するようだ。
 事務的な決めごとが終わりかけた頃、田中泯がぽつりと言った。「マイルスが死んだ日、ニューヨークで隣りにいたセシルが僕に、『ブラックの死だ』と言って嘆いた」と。「エッ、ホント!」と、マイルス・デイビスのフリークスの俺は吃驚してそのエピソードを嬉しがった。1991年だった。
 9月28日に「ロマーニッシェス・カフェ」で、ペーター・ブロッツマン (sax)、灰野敬二 (g)、大友良英 (g・turntable)、羽野昌二 (ds)のライブを終えて翌29日はグタッとなっていると、テレビでマイルス・デイビスの訃報が流れた。当夜だったと思うが、NHK教育番組に急遽、1960年代初頭からニューヨークのハーレムに入り込んでいた、写真家の吉田ルイ子が出演して追悼していたのを思い出した。そして、何か一枚をというアナウンサーに応えて挙げた一枚が、『Jack Johnson』だった。エッ?と思ったが、俺個人は最も好きなマイルス・アルバムの一枚だった。『Miles in the Sky』(68)で初のエレクトリックを入れ、『キリマンジャロの娘』(68)、『In a SilentWay』(69)、そしてあの傑作『Bitches Brew』(69)の翌年に出した1970年の映画のサントラだが、最もロック色が強く出ているアルバムだった。大作『Bitches Brew』は練りに練った構成力で聴かせていたので、正面切って文句を言う日本の評論家も数少なかったが、『Jack Johnson』はまるで、ブラック・ファンク丸出しの攻撃的たたみ込みエレキサウンドだったので、多くの評論家、ジャズ愛好家、ミュージシャンがマイルス離れ現象を起こし口走った。「ジャズは死んだ!」と。
「俺のことをジャズマンと呼ぶな!」とマイルスは言った。1964年10月1日「ジャズの10月革命」をセシル・テイラーたちは起こしニュージャズ宣言をした。「ジャズは死んだ」と世界は言ったが、マイルスは「バンド全員に犠牲を強いるほどのインスピレイションや知恵が必要だ」といって、ハードバップを感覚的に前進させた『Four&More』(64)から黄金期を作った。マイルスもセシルも「音楽にたち現れてくるもの、それは遠い祖先」で、一致していたのだ。「ブラック・ミュージックだ!」とマイルスは言い続けて死んだのだから。