Flaneur, Rhum & Pop Culture
韓国つきあいの続く<今昔物語>
[ZIPANGU NEWS vol.113]より
LADY JANE LOGO











 前号の「今治ミーティング」から、松山の道後温泉で疲れを癒して帰京した翌日1991年8月20日、約束していた写真集制作の話で、石田えりと荒木経惟、それに『スイッチ』の編集長・新井敏記と「ロマーニッシェス・カフェ」で会っていた。その流れを書こうと思っていた矢先、数ヶ月前のNHK・BSで「姜尚中(カン サンジュン)がゆく韓国ルート1の旅」という番組をたまたま観ていると、いきなり韓国の木浦にある共生園という孤児院が出てきたので、慌てて録画ボタンを押した番組が頭から消えないでいた。
 国道1号線はかって朝鮮を支配していた時代に日本が造った道路で、南端の木浦から北上、ソウルを越えて今38度線のJSA(共同警備区域)辺りまで、500kmをバスで行く旅だった。そのはじまりが木浦にある共生園を訪ねることだった。木浦(モッポ)から北へ務安(ムアン)の町を海側に30分行くと、弘農(ホンノン)の地に造られた霊光(ヨンガン)原子力発電所6基は、世界でもっとも民家に隣接した原発で、日本と同じく事故と不正を繰り返していた。光州(カンジュ)では日に3000本の長距離バスが発着し、全州(チョンジュ)のバスターミナルではやたら軍服姿の兵士が多く、バスを待つ二年間の兵役に入る若者と別れを惜しんで涙ぐむ恋人たちの姿、近くの論山(ノンサン)に陸軍基地があるからだった。と言った具合で興味を引き続けたが、まず共生園で姜尚中を迎えた園長は鄭愛羅(チョン エラ)という女性だった。衝撃的に懐かしかった。
 1998年11月30日、金浦(キンポ)空港に最終便で着くと、気温は既に零下で肌を切る寒さだった。翌年に企画した哲人・金大煥(キム デファン)の音楽生活50周年コンサートを東京でやる打ち合わせだったが、翌日は午後いちに木浦に着かねばならなかった。韓国を代表する監督の金洙容(キムスヨン)の日本映画『愛の黙示緑』のプレビュー上映を共生園70周年記念式典とともに、木浦の文化会館でやることになっていたのだ。ソウル駅午前7時発「ムクゲ号」で5時間30分後終点の木浦に着いた。そこからどう行くかが問題だったが、うろついていると勘を働かした女性が寄ってきて、俺を式典の客だと確認すると自家用車で会場まで送り届けてくれた。その人が鄭愛羅園長だった。姜尚中が会った園長と同じ人だった。以後この方にお世話になるのだが、会場に着くと誘ってくれた主演の石田えりの控室まで案内してくれた。
 高知出身の女性が戦時中にクリスチャンのユン・チホに嫁いで共に孤児院を運営し、<韓国孤児の母>として波瀾万丈の一生を送った田内千鶴子の実話物語だった。エグゼクティブ・プロデューサー・近藤晋、脚本家・中島丈博、千鶴子の母(オモニ)役・風見章子、千鶴子の石田えり以外はすべて俳優スタッフ共に韓国人にもかかわらず、そして監督の執拗な取り直しもあったとはいえ、<日本映画の韓国上映は法律で禁止>されていて、プレビューでありながら完成数年後だった。結果当作品が日本映画上映認可第一号の作品だった。鄭園長は「ハルモニ(お祖母さん)の頃は戦争孤児ばかりだったけど、今は経済孤児ですね」と時代の変化を語っていたが、第二次大戦後は園は無事だったものを、1950年に起こった朝鮮戦争で、木浦まで南下した北朝鮮人民軍に占領された2ヵ月と、反撃した軍事政府の韓国に依って園長のユン・チホが殺されたことは、惨い理屈に合わない悲劇だった。そして映画内で、当時は路地路地に頻繁に現れていたのだろう「カクソリ」という、ボロを纏い歌や雑技、時には世の中を皮肉る辛口言葉で人寄せをする旅芸人というか乞食集団が、日韓の比較民俗として妙に気になった。そして、「パンソリ」が主人公たちの思いを秘めて、趣をかえて映画に湿り気を与えたのだった。
 翌日は飛行機の切符を入手してソウルに戻った。韓国の初代グループサウンズ協会の会長という人気スターの座を自ら捨てて山に籠り、書と、米粒に般若心経283文字を彫る技を編み出して、それを音楽に注入したパーカッションの哲人・金大煥を、ソウルでは石田えりに紹介する番だった。
 今、6月22日から月末まで韓国のサックス奏者・姜泰煥(カンテファン 金大煥の従弟)の来日ライブツアーを控えていて、企画者の俺は旅の導入部を考えているのだが、例えば、韓国から来たアミちゃんがやってる82マッコリ・ダイニングという下北沢の店があって、『愛の黙示緑』やBS「姜尚中紀行」のDVD-Rを持ってそこへ連れて行き、ご機嫌を取ろうと思うのだが如何なものだろうか?