Flaneur, Rhum & Pop Culture
『何日君再来(ホーリー・ジュン・ツアイライ)』のレコードを引っばり出してみる
[ZIPANGU NEWS vol.111]より
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 4月24日の朝刊が来た。“安倍流経済復興の足かせ”が第一面だった。つまり、公共事業費の積み増しは、被災地以外の工事にばかり回って被災地の入札が停滞しているのだ。土木企業も利潤追求だったら、被災地より他地域が良いだろう。だが、問題の根本が適っている訳で、「被災地の復興が私の一番の役目です!」と肩に力を込めて言いつつ、その辺りは亡国のぼんぼん総理に分かるわけがないのだろう。ノータリンの指導者にアホな愚民だ。勿論俺もアホに入っている。俺が知る敗戦後ず一っとそうだった。
 1991年は、前号でその年に亡くなった高柳昌行に触れたが、バブルの崩壊の年のはずだった。ところが日本列島の実体は、住友銀行頭取の磯田巽、イトマン社長の河村良彦、常務の伊藤寿永光、関西新聞社長の許永中、野村証券会長の田畑節也、社長の田淵義久、佐川急便社長の渡辺広康、料亭女将の尾上縫らが、ゴマンの政治家とヤクザを抱えて血みどろの金争奪戦を繰り広げていた。2月には福井の美浜原発で国内最大の原発事故が起き、4月には地上げの総決算<バブルの塔>新都庁舎が完成した。5月に東京湾の芝浦にできた大型ディスコ「ジュリアナ」にはサラリーマンの男女がわんさと入り浸り、月間3万人を超す盛況ぶりだった。イラクに20万人の死者を出した湾岸戦争の、多国籍軍(米軍)のゲームのような、ピンポイント爆撃をテレビで楽しみながらだった。テレビのバラエティショウに出番ですとばかりに出てくる軍事評論家たちや、何処で憶えたか司会者たちが使う、エグゾゼだのスカッドだのパトリオットだの、ミサイルの名前を得意げにみんなが使った。
 同年に同じく友人だった女優の中島葵が亡くなった。俺とは敗戦の前後の違いはあるが、昭和20年生まれの同期だった。彼女の父はあの俳優森雅之だったが、宝塚の女優との間に生まれた私生児だった。日活映画のスクリプターの白鳥あかねが言った追悼の言葉がある。森雅之を知る白鳥あかねが生前の葵に、「役に入るときの恍惚の表情が、あなたとそっくりだったわ」と告げた時、葵は途端に顔を隠して号泣したのよと言うエピソードと、葵が李香蘭こと山口淑子と、男装の麗人・川島芳子の好対照の二人の<ヨシコ>を演じ分けて、紀伊国屋演劇賞を受賞した『終の住処・仮の宿/川島芳子伝』の舞台姿を思い出す。長く信州の病院で癌の治療入院をしていた彼女の葬儀は、5月22日だった。
 ところで、誰も興味のないことだが俺は蕎麦好きである。その日も葬儀が終わって、室町砂場・赤坂店に行った。斎場が信濃町の千日谷会堂で歩いて行ける距離だった。粋な数寄屋造りは有名なくらい盛りが少なく、コストパフォーマンスで蕎麦が食えるか!と腹を括らせる蕎麦屋だ。6月22日の高柳昌行の葬儀の後も荻窪の本むら庵に行った。お寺があった荻窪駅の南側を線路伝いに西に歩いて北口に渡れば、石臼を挽く巨大な風車が迎えた。倖そう感はなく何事においてもバランスが取れている。2月に友人の父が亡くなった葬儀の後も、神田淡路町の薮蕎麦だった。確かお寺が根津か谷中だったからだ。作家の池波正太郎が「先ず、東京が誇る神田薮青麦」と食の本に書くくらい揺るぎない明治13年の開店だ。砂場も同様江戸仕立ての濃いつゆは、広島育ちの俺は蕎麦は絶品でもなかなか馴れない。蕎菱は元来江戸のもんよ、田舎もんは引っ込んでろい、と言われても好きなものはしょうがない。4月の渋谷シアターコクーンの『ル・パル』という、踊りと音楽とパントマイムだけで観せる、何処にも属さない大間知靖子演出の3時間の舞台が終わった暗も蕎麦が食いたかった。そして恵比寿の竹やぶにした。柏の本店が隠れた名店に浮上して、乞われて東京に進出して来たらしいが、店内の真ん中に作家ものの水禽窟を飾っていかにもバブリーな同時代を気どった店だった。8月に大野一雄の『花鳥風月』を銀座セゾン劇場で観た時は白金台の利庵だった。<晴れ>の日にも蕎麦なのだ。結局、利庵が一番好きな蕎麦屋だった。
 蕎麦が精進ならば、悪者も尊者も彼岸で成仏するという死者たちは、この世の<罪>を少しは背負い出しては呉れないのだろうか?それとも業の深い生者は、倍々増える<悪業>の中で<刑罰>を受け続けるばかりだろうか?同じ頃、竹中労もM・デイビスもそっち行った筈だ。そこんとこを聞きたかったのに死者は語らずかい。“いつの日か君また帰る”君は『何日君再来』を歌ってたね。