Flaneur, Rhum & Pop Culture
『リーズン・フォー・ビーイング』と『コンボ・ラキアス』と
[ZIPANGU NEWS vol.110]より
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 今TPP(環太平洋連携協定)に交渉参加するしないで安部政権は、国民を欺瞞的に丸め込もうとしている。アメリカに断固とした姿勢で臨むと息巻いていたのは支持率ダウンを恐れてで、瞬く間に<吉田ドクトリン>体制を積極的に引き受けたようだ。<吉田ドクトリン>とは、軍事から政治のみならず、文化に至るすべてをアメリカの傘下とすることをいう。1952年の敗戦国日本からやっと独立したとされる「サンフランシスコ講和条約」だが、同時に「日米安保条約」を結んでしまった体制を、時の全権吉田茂首相になぞらえて言うのだ。<美しい日本>などと空想を語り、<隷属国家>を<強い国家>などと疑似共同体を偽り、人工的にインフレを起こして企業と投資家のためだけの価値を作り、TPPで震災や原発で疲弊している日本人の生活や生きる基盤を更に脅かしている。ここは政治を語る場ではないが、文化は政治の隷属物か?こんな世で何十年音楽を絡めて、文化の端くれに関わってきたのだろうか。
 1975年、10数年続いたベトナム戦争が終わりをつげ、シアヌークのクメールルージュがカンボジアを解放した。アジアに平和がやって来た訳ではないが、日本はシラケの時代で<リベラル派>の三木政権も手伝って時代はボーッとしていた。そんな時代の1月に下北沢に「レディ・ジェーン」を開店した。時代とは関係なく、自分が30歳になる生活者の恐怖感から定期収入を求めただけなのだが、夏頃には劇団と店の両刀が負担になり始めていた。俺は店を取って、酒場の研究とジャズに改めて向かおうとした。
 1979年9月1日、2日の下北沢音楽祭の半年前の春、ライブをスタートさせたが、当初は4ビートのハードバップ・ジャズだった。いわばジャズのメインストリームだ。ところが翌年になるともう、フォークロックの大塚まさじや三上寛と古澤良治郎を組ませて王道から逸脱するようになった。2、3年後には橋本一子や高瀬アキを中心に森山威男や坂田明、渡辺香津美、清水靖晃、井野信義、梅津和時、芸大系の高田みどりやYAS-KAZの激しく鍔競り合うオルタナティブ・ジャズとでも言いたい形を店の主軸にしていった。続いて藤川義明、原田依幸、加古隆、中村達也、井上敬三、吉沢元治、沖至や近藤等則のフリージャズの洪水の中に、東ドイツから来たコンラット・バウアー (tb)やパリから来た重鎮アラン・シルバ (b)、サン・ラ・アーケストラのメンバー、ダニー・デイビス (sax)といった国際派が混在するようになっていた。
 1991年は西麻布「ロマーニッシェス・カフェ」も出して6年目、ライブのフリージャズやインプロビゼーションへの偏重ぶりはより激しくなっていた。世界的な影響力を持っていたジョン・ゾーンやフレッド・フリスが常連だったせいか、全世界から出演者が集まってきていた。が、バブルの時代が崩壊して失速した。正確には日本全体が<バブルの崩壊>などという認識はなくて、都市文化は大きく歪みはじめていた。
 そんな中で印象に残ったのが1月27日にやった高柳昌行率いる「ロコ・タカヤナギ・イ・ロス・ポブレス」というタンゴ・ユニットだった。「ジャズに関わり学んできたほぼ同時間を傾倒してきたタンゴの、そのリズムを重視して、第一歩より始める」当時生意気にも俺が書いたチラシの文句だが、言い得て妙なのは、その日は午後には店に入ってセッティングを終えるや、延々とリハーサルを繰り返した。高柳一門の<党首>が、佐藤敏夫をコンマスにして、6、7人のギタリストと共にリズムをユニゾンで繰り返す。スパイラルにエッシャーの絵のように回転して行く。奇を衒うことなく基本の基本に集中した熱量と<音楽の奴隷>の生りに圧倒された。ノイズの元祖と言うべき、フリージャズのイノベーターの、別顔の真骨頂を垣間みた気がした。
 それから一ヶ月後の3月2日、師匠の高柳昌行と共に、メールス・ジャズ・フェスやあちこちで爆音ノイズを破裂させていた飯島晃の「コンボ・ラキアス」のライブだった。透徹した叙情性からなる4人のハーモニーは、例えば、風に揺れる野草のごとくかそけくて密やかだった。