Flaneur, Rhum & Pop Culture
瀬戸内海は母情の海
[ZIPANGU NEWS vol.109]より
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 昨年暮れの12月13日、四泊五日の瀬戸内海の島を巡る旅の最後に行ったのは「能美島」だった。源氏に敗走する平家ではなくて、ある勝手な思いで東から西へ渡って行こうとしたのだが、渡船海路がそうは易々となってない。<しまなみ海道>やら<とびしま海道>やら島と島を本土と繋ぐ陸繋島になっていて、そのために渡船航路は限定されて、一旦本土に上がらぎるを得ない海路になっている。観光誘致目的で海道を造ったのは当然だが、広島や岡山と四国側との行政間の綱引きもあって、便利以外観光誘致にもなっているとは思えない。勿論旅行本で取り上げる島はにぎわいを見せていて、除外された島は只の素通りされるだけで繁盛と廃れを際立たせている。「大崎下島」で一年前に都会から島に帰ってきたという、誰もいない桟橋わきで釣り糸を垂れる中年女性が俺に言った。「あんたが今晩何処泊まるんか知らんけど、一泊の宿賃くらいで一軒家が借りれるんよね。来んさったらええのに」と言われて一瞬そう思った。情報側の日本の雑誌やマスコミやジャーナリズムはいつもそうで、島の暮らしへの意識などなくて売れれば勝ちなのだ。信じて群れたがる旅行する側のバカな国民性も勿論ある。島民は諦観するしかないようだが、いまだ橋のない離島の島は、ゆたかに準備された<離島のためのゼネコン国家予算>をおらが島に取り込もうと、霞ヶ開詣でに余念がないのが現実だ。
 広島市街のオリエンタルホテル広島から市電で宇品港(広島港)に行き、「能美島」行きの高速艇に乗船した。すぐ船は「似島」の左側を通り過ぎようとする。宇品の港や海水浴の浜、或は東寄りの元宇品にあった明治27年の日清戦争時から太平洋戦争の敗戦まで、日本一を誇った軍港跡や軍用線宇品駅跡に遊んだ青少年の頃、戦後民主教育の学校や教師からではなくヒロシマを知った。「似島」は大日本帝国陸軍の島で一大検疫所があった。敗戦後、復員兵は全員似島で検疫消毒されて宇品港に上陸して日本列島に散っていった。1945年8月6日には建物や施設の一切が瓦礫となった広島市街から約1万人の被爆者が急遽運び込まれたが、治療の甲斐なく殆ど皆死んだ。世間には秘密裏だったがライ病の隔離病棟もあった。俺の時代から「似島学園」という原爆孤児を収容する施設があって、今でも知的障害者を含む児童養護学校があるが、2009年には学校側の児童に対する暴力事件が表沙汰になったことを思い出した。「宮島」をすぐ西に見る似島は苦から安芸小富士と言われ、美しい瀬戸内海を更に美しくしているというのに、そんなことばかりが浮かんできて、実時間は20分の高速だったのになかなか「能美島」に着かない。
 22、3分後、船は中町桟橋に着いた。だが、その先どうやって行けば良いかてんで分らずいると、港の係員が目の前の江田島市役所を指差した。当然だが手続きなしでいきなり戸籍謄本や抄本を開示してくれる訳はないが、親切な女性職員が3人“こうよね、こうよね”と親切に教えてくれてバスに乗った。「能美島」なのに江田島市なのは随分前に市町村合併されたからだ。母の故郷は「能美島」と地峡で「江田島」と繋がっているつなぎ目の個所、飛渡瀬のいう村だった。元々は離れていた二つの島だったが潮流の堆積で浅瀬が出来るようになり、引き潮時には石を飛んで渡れるようになったのが地名の由来だ。まず尋ねようとした妙覚寺にはたどり着いたが、明治5年その妙覚寺の一角を拝借して出来た飛渡瀬小学校は139年の歴史を閉じて1年前に廃校になっていた。ほら合併ということはそういうことなんだと、大和ミュージアムなどの観光で賑わう「江田島」という文字が恨めしくなった。
 1991年2月8日、82歳の母の容態が急変して倒れた。老人性骨粗髭症と白内障だった。2日後には完璧に寝たきりになった。2月13日都立広尾病院に入院。その後、足立区西新井の聖コーワ病院から高井戸のロイヤル病院と転院して、1年後の1992年1月28日に死んだ。1981年に広島で一人暮らしをしていた母を東京に引き取って暮らして12年目の死だった。「東京に行くぐらいなら広島で一人がいい」と言った母の東京の11年の生活は果たしてどうだったのか?無口で我慢の人だったから知る由とてない、能美島〜広島〜栃木〜広島〜東京と戦前戦後、人の都合で移り住んだ不幸な一生だったかも知れない。