Flaneur, Rhum & Pop Culture

<演劇の街・下北沢>で遠吠える
[ZIPANGU NEWS vol.15]より
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 前号で書いた1980年5月のジョニー・グリフィン・コンサートは、産声をあげたばかりのマルチホール「スーパーマーケット」の名を世間に知らしめたが、ストレート・アヘッドのハード・バップ・ジャズにこだわることはしなかった。
 何せ謳い文句が<マルチ>で屋号が「スーパーマーケット」な訳だから、「カシオペア」「プリズム」「スクエア」と当時流行の三大フュージョン・バンドを取り上げるのは勿論、テレビの活劇ドラマ「大都会」の音楽をやっていた高橋達也・東京ユニオン・ビッグバンドから、新人だったが美人ヴォーカルでマスコミが取り上げていた阿川泰子までメニューに載せて、ハラハラしながら聴いた。
 自分好みの色で言えば、山下洋輔VS森山威男とか、ドクトル梅津のアナーキーで過激なパフォーマンス・バンド「生活向上委員会」とかだったが、自分好みのものだけ置いているスーパーマーケットは無い。
 『赤とんぼ』を最初にジャズ・アレンジで歌ったと記憶する安田南が『国境の南』を歌い、別の夜には西岡恭蔵が、大塚まさじと作ったバンド「ディラン(監)」のヒット曲『プカプカ』を二人共必ず歌うのだが、『プカプカ』のモデルは元祖ラリパッパの安田南だったのだ。そして、『いとしのマックス』こと荒木一郎が『空に星があるように』さらりと歌えば、別の夜は三上寛が、ステージを『小便だらけの湖』にして『おど』をねっとりと我鳴るのだった。

 80年代といえば、テクノポップスの出現が画期的な音楽的流行だったが、このイエロー・マジック・オーケストラに代表されるシンセサイザー・サウンドの、正確無比で無機質感覚の音楽は、「スーパーマーケット」といえども、何故か不似合いだと敬遠した。こんな所が当時も今も、雑居の街、雑居故に生みだす下北的エナジーを特徴づける要点ではないかと思っている。

 今特徴といったが、このテクノポップスの入らない<寄せ鍋文化の街・下北沢>の25年後の現在は、何といっても<演劇の街・下北沢>だが、本多劇場より何処より早く、わが「スーパーマーケット」が演劇を企画・上演していたことに触れないでいるのは、それこそ名折れというものだろう。
 伝説の「モンタレー・ポップスフェス'67」のドキュメンタリー映画や、新人石井聰亙監督の「狂い咲きサンダーロード」などの映画上映もそうだったが、既に劇団を結成していた佐藤B作の「東京ヴォードヴィルショー」や柄本明の「東京乾電池」、流山児祥の「円劇団」、坂本長利の一人芝居「土佐源氏」などと共に、現在も続く永井愛が大石静と立ち上げた劇団・ニ兎社の前身となった「杉田制作室」の上演や、竹内銃一郎の劇団・斜光社が「秘法零番館」と名を改めて再スタートした名作の「あの大鴉さえも」を生んだりと、記念碑的な出来事にも「スーパーマーケット」は手を加えてきたのだった。

 という訳で、演劇ジャーナリズムからもマスメディアからも、そして演劇ファンからも<演劇の街・下北沢>の歴史から消された「下北沢スーパーマーケット」の演劇的側面に巡らす時、<継続こそ力なり>の伝でいえば、5年で潰してしまった訳だから、犬の遠吠えに似て大きなこと言えたものではないか。