Flaneur, Rhum & Pop Culture

電車が止まった音楽祭、二日目
[ZIPANGU NEWS vol.12]より
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 「電車が止まった音楽祭!」
 一九七九年九月の第一回下北沢音楽祭の横の土堤上を通る電車が、駅でもないのに止まったことは前号で触れたが、翌日、前日のコンサートの新聞記事の見出しは、各紙とも似たり寄ったりそうだった。
 この記事は、一日目の評判と共に二日目に少なからぬ影響を与えた。それと元より、ジャズよりロックが人気指数でいえば圧倒的だったから、開場前から場内外(といっても、音は筒抜けの街の中の野外ステージ)は、夏の終りの暑さも加わり熱気ムンムンで、一時間前には長蛇の列ができた。

 下北沢という街は、今も当時もまともに車が走れる道路は三軒茶屋に抜ける茶沢通りのみで、入り組んだ路地という路地に物販店や飲食店が立ち並んでいて、その路地で人と人が出会い輪を繁いできた街作りになっている。
 物理空間的には勿論、精神文化もそこから立ち現われるものを最大の特徴にしているのだ。そんな街の駅のそばの空地に、三千人もの客を集めた野外コンサートが突如出現した訳だから、井の頭線の運転手といわずともびっくりするはずだった。

 最初にステージに現われた司会者は、モスグリーンのつなぎにTシャツの坂崎幸之助だった。
 しもきた発信の音楽祭故、参加ミュージシャンは下北沢に由縁の人たちに限定したが、とても二日間で納まり切る数ではなかった。
 早くから実行委員会事務所にちょくちょく顔を出していて、既にアルフィーは活動をスタートさせていたが、「お前、喋りが旨いな」ということで司会者に回ってもらった。

 四番目に登場したGASが石田長生のギンギン・ソウルギターで攻めまくった後だった。五時半とはいえまだ陽は高い。訳あって参加出来なかった金子マリの乗った神輿が、いきなり会場のステージ前に祝福の乱入をするという事件があった。自画自賛するなら、ここら辺がしもきたならではの現象であり、商店街主導ではない並列の実行委員会の手作り方式が生んだハプニングだと思った。

 この嬉しい出来事は勢いづいていたステージと客席を更に加熱させた。
 放っておいても只では帰さないダディ竹千代&おとぼけCatsの高度なギャグ・バンドの爆笑に次ぐ爆笑で、客は完全にノック・ダウン。司会の坂崎が思わず「ダディのことは忘れて下さい」と注釈を付けて、あがた森魚を紹介したものだった。
 次いでRCサクセションの忌野清志郎に煽られ湧きに湧いたステージをトリで受け継いだのが、カルメン・マキ+チャーだった。沸点を越えた十二曲目に当るアンコール曲『私は風』が余韻を残し、しもきたが震えた二日間が終った。

 祭りのあとは淋しさが残る。だが、終演後忌野が「夜の屋外だろ。走ってく電車がたまんない」と述懐したように、音楽祭が音楽祭だけに終らず、街に溶け込みもの皆一体化させてしまったことに、真の地域密着型音楽祭の喜びがあったと思っている。

 十六バンド六十人の出演者、観客二日間で五千人、何と前売り千円、当日千二百円。
 昔ならやれたではなくて、今やれないではなくて、やらないんだろうな。