Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












叱られたい奴がいるからといって、そっちじゃ映画撮れないだろ
[季刊・映画芸術446号より]

VOL.21

 暗澹たる気分で新年を迎えた。御用始めの一月六日、保坂区長に会うため世田谷区庁舎に出掛けた。去年から要請していた懸案事項があった。下北沢の再開発問題の根幹課題たる道路建設に対する区政方針を問い質すためだった。何と言ってもその道路は、住宅や店舗が密集している街の中心地をぶった切るように、環七幅の道路を通すという無謀極まる計画な訳だから、まともな人間が計画したものとも思えない。まともな人間云々を言えば、<特定秘密保護法>を頂点として、原発の海から辺野古の海まで復興遅延も開発強行も、東京オリンピック改め、いわば日本オリンピック狂乱の中に紛らわせようとしているようだ。つまり日本全体が不穏な訳で、下北沢など一都市を侃々諤々する場合じゃないだろうと言われるだろうが、経済を第一優先した同根の問題としてこだわらない訳にいかない。山野や都市を切り崩した二十世紀の再開発に放っとかれた街・下北沢。かつて、そんな麗しかった下北沢に連れ込んで遊び歩いた映画人・鴨田好史が、去年の秋、この世を去った。
 鴨田好史と知り合ったのは相当古い。演劇青年だった俺が作演出の稽古をやっていた一九七三年のある日、小沼勝監督が作品『女教師 甘い生活』('73)の映画内に稽古風景を挿入したいとやって来て、セカンドについていた相米慎二を紹介された。打ち合わせと称して、新宿ゴールデン街、二丁目と繰り出した何日目かの夜に、相米が鴨田好史を連れて来たのが初対面だった。それから何日かすると、サード助監督だと紹介されて根岸吉太郎を連れて来た。それを機に、基本的に相米と俺の待ち合わせに両人どちらかが混ざるというパターンが続いた。行動半径もほぼ共通していたらしく、小便横町の焼き鳥の「きくや」からスタートして、キヨの「唯尼庵」、エミの「比丘尼」、中島の「桂」、俺の演劇仲間の新子がまだやっていた「クラクラ」、たまには恐い「前田」、恭子の「デタラメ」、区役所通りを挟んだ向いの「小茶」には特に通った。出歯ガメ的に大島渚の創造社の巣窟・緑園街の「ユニコン」辺りも遠征し、夜が更に深くなれば、二丁目のおかまバーの「ナジャ」やお里の「ひんがら屋」が最終地点だった。金がないからたまたま持ってる奴が払う。無ければ誰かが犠牲になって付けにする。中途でどうにもやり繰りが出来なくなった時は、日活のプロデューサー、監督の溜まり場だった「鼎(かなえ)」という居酒屋を襲って、三浦朗や海野義幸や誰か先輩の伝票に付けて只飲みした。鴨田好史は当時から四谷に住んでいてアパートまでは歩ける距離だった。だけど「おい、鴨ちゃん、ここ人が住むとこじゃないよ!」二度と行きたくなかったし、その後行ってないはずだ? 金はないが時間と興味はあったまだ二十代、そんな勢いで街を変えて下北沢となれば、既に半分はシモキタッ子になっていた俺の領分だった。新宿でもそうだがシモキタでも居酒屋からだ。目指すのは焼き鳥「鳥正」。俺はみんなに言った。「この店のことを皆トリマサって言ってるけど間違ってんだ。本当はトリショウって言うんだよ。俺たちはたまにフランソワって言ってんだけど」と。次いで目指すはバー「どーむ」。俺が二年前までバーテンダーをやっていた店で、その体験がシモキタッ子になる実感を与えた。原爆ドームを屋号にしたオーナーの岡村精は俺と同じ広島出身で、現代映画社のチーフ助監督だった。オーナーは店では役立たずだったが、ママ始め女優や歌手志望の女の子が吉田喜重や映画演劇関係者の客を相手に精々突っ張る、<文化>の香り高いバーだった。格好付けた鴨ちゃんがいた。後は店の子を誘ってジャズバー「良子の店」に行くのが定番で、そこはまるでゴールデン街の佇まいだった。
 時節は流れて、俺は下北沢に「レディ・ジェーン」を開け、一九八〇年にマルチイベントホール「下北沢スーパーマーケット」を作った。相米は同年『翔んだカップル』で監督デビューしたが住処が定まらず、根岸は既に二年前に若干二十七歳で『オリオンの殺意より 情事の方程式』で監督デビューして下北沢に住んでいた。神代辰巳監督のロマンポルノ作品の殆どにチーフ助監督と脚本を書いていた鴨ちゃんは汚い四谷アパートに住み続け、一年前に『精霊たちの祭』という子供たちの救いを求める純朴な映画を撮っていた。上映館を失っていたその作品を「下北沢スーパーマーケット」で上映することにした。ついでに「レディ・ジェーン」でもやった。「レディ・ジェーン」でアルバイトをしていた東京造形大の学生だった故沖崎忠司は映写技師の免許を持っていて、うまく十六ミリ映写機を只で持ち出させた。当時は免許証が無ければ映写機は借し出し禁止だった。ジャンルを規制したくなくて「スーパーマーケット」と名付けたものの、映画上映は初めてだった。『精霊たちの祭』は後日の『真夏の夜のジャズ』('59 バート・スターン監督)や『モンタレー・ポップ・フェスティバル67』('67 D・A・ペネベーカー監督)上映の引き金になった。
 その数年後からだったと思う。毎年十二月になると三人で「レディ・ジェーン」にやって来るようになった。年の終わりに契りの会を開いて一年の反省をするのだそうだ。反省といっても、相米や根岸は映画を撮り続けているから、まず反省材料があるのだろうが、鴨ちゃんは助監督を続けていて本編の監督作品は一本も無かった。一九九四年になっても年末の<三人会>は続いていた。ひとつ分かったことは、監督をしていないが鋭い演出眼を持つ先輩の鴨田好史から、後輩の二人がお叱りを受けて一年を終えるという儀式ではなかったかと。
 そして、神代辰巳が『インモラル 淫らな関係』を撮り終えた後、一九九五年二月二十四日に死んだ。数日後の三月四日、俺は新宿富久町のお寺のコンサートを聴き終えて、ゴールデン街の「桂」に全く久し振りに顔を出した。すると、暗いカウンターに突っ伏した男がいた。何処に座ろうかと思っていると、口の悪いマスターの中島が「カモだよ!」と言った。隣りに座る場所を決めた俺は乱暴に鴨ちゃんを引っぱり起こした。すぐに起きた鴨ちゃんだったが、俺の顔を見るや否や泣き始めた。神代監督の死が余程応えてるのだと放っといたが、周子の「やんややんや」に誘い、十四、五年ぶりにゴールデン街で二人酒を飲ったが、酔っぱらいの愚痴酒になっていた。その後『インモラル』で残ったフィルムで『路上』を撮った鴨ちゃんだったが、二〇〇〇年に母の容態が悪化して故郷の愛媛の新居浜に帰ってからは、二〇〇一年に亡くなった相米慎二の法事で会うばかり、<三人会>ももうない。だけど四谷のアパートと新居浜を行ったり来たりして、ある日電話をかけてきた鴨ちゃんが、「レディ・ジェーン」にやって来た。映画の企画を余程の思いで語るのだが俺は心で叫んでいた。「もうだめだよ」と。それ以降の鴨ちゃんの情報は途絶えたまま、そして数年後、いきなりの訃報だった。
 話は変わるが、去年九月二十一日、第五回下北沢映画祭の前夜祭に、下北沢の映画館「トリウッド」と「ポレポレ東中野」の支配人・大槻貴宏といまおかしんじ監督の鼎談を依頼された。いまおかしんじとは初対面だったが、昨年末になって新居浜に何度も鴨ちゃんを訪ねていたことを知った。俺は巡り合わせの綾に驚いて彼に電話をした。『インモラル』で監督補の鴨ちゃんに、不慣れな現場で励まし慰めてもらったチーフだったいまおかは、二〇〇六年、還暦のお祝いに駆けつけたという。母は存命中で共に田植えや炭焼きに汗を流していたと。「金と無縁の生活をするんだ」と言って、うどんを豚にやって余りを自分で食っていたと言うのだ。それでいて、自分の青春を描いた幻の「遠くまで行くんだ」の企画を、俺に喋ったように得々と語るのだった。だったらずっと<路上>の人でいれば良かったのに。いい人は踏ん切りが良くなかったよ。合掌。