Flaneur, Rhum & Pop Culture
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生きていること総てが〈踊り〉なんだ
[季刊・映画芸術445号より]

VOL.20

 今年の八月六日の原爆忌を翌日に控えた五日、広島に行こうと品川駅のプラットホームにいると、踊りの田中泯から電話があって、あるプロジェクトの共同プロデューサーを引き受けてくれないかといった要件だった。八月七日、東京に戻ってきて以来その企画は現在進行形で追い込みに入っている。
 田中泯は伝統を取り入れながら先端を行く〈フリンジのダンサー〉である。フリンジということは〈縁〉ということだから、事物の中央には立たない、端っこに立つ。例えば、マイルス・デイビスはフリンジの人でありながら、時間軸では常に中央にいた音楽人だった。だから世界中何処へでも飛んでいって踊る。それを自身で〈場踊り〉と名付けている。狭い地球の〈中心〉を牛耳っているのはごく一部の権欲の奴らで、広い地球の〈端っこ〉は放ったらかされて生涯かけても行けないくらいある。それをやろうとしているのか。〈場踊り〉には始まりも終わりもないのだから。
 八月十日、広島から帰った数日後、NHKのETV「人を動かす絵 田中泯 画家ベーコンを踊る」なる番組で、田中泯はベーコン好みの山吹色に光る土を何処から調達したのか、右足が埋まっている絵から選んだ土を、自身の創造の根城「プランB」の舞台に持ち込んで踊り始めた。絵を模写するのではなく、ベーコンを踊りの中に描くというか、本人曰く、ベーコンの時間とオーバーラップさせるという。踊る状態を作ることは、衣服を脱ぐことではない。暴力的な〈肉〉となって現れるベーコンに、超スピードで想起する折り重なるベーコン(田中泯の身体に他ならないが)と向き合えば、やさしいインスピレーションになる。そこでは衣服を脱ぎ始めるのだ。生きるという基本が立ち現れる。人間は誰しも何かを隠して生きている。裸になったからと言って、皮膚の内側に隠していれば、皮膚を剥がさなくては現れてこない。社会の仕組みや制度の側に居れば、ベーコンはいつだって〈暴力〉でしかない。六月八日、豊田市美術館「F・ベーコン展」で、田中はベーコンに視られて叫び哭き踊った。「危なかった。もう少しでコントロールの外に行きそうだった」と呟いた。
 一九九〇年七月、ニューヨーク近代美術館では「F・ベーコン展」だった。俺は微動だにさせないベーコンと対峙して疲労困憊になったことを思い出したが、例えば、二〇〇一年九月十一日、世界貿易センタービルを眺めながらカールハインツ・シュトックハウゼンが「人の手による最高の芸術だ!」と感嘆した時、世界が偉大な彼を音楽社会の門から追い出したことを、世間は何とコメントするのだろうか? 政治経済や教育で文化を蹂躙しても、衝撃か感動か、醜悪か美しさか、ベーコンの絵と貿易センタービルの光景がもたらす感覚は同質のものという真理は動かないのだ。
 四月八日、映画『ほかいびと』('12 北村皆雄監督)を「プランB」で視た。「ふらりとやってきた漂泊の俳人・井月(せいげつ)。幕末から明治にかけて、伊那谷をおよそ三十年放浪した男。家もない、家族もない、ここに一泊、あそこに二泊と一所不在を貫く。乞食井月、一宿一飯のお礼にと、句を置いて去る姿は、日本古来の『ほかいびと(寿・祝人)』を思わせる。」と解説にある。記録を基本にして再現し物語りを加えたドキュメンタリー・フィクション映画だ。チラシに曰く「芥川龍之介に見いだされ、山頭火に慕われ、つげ義春が漫画に描いた井月」とあって、それだけでも魅かれるものがある。また「信州の北に一茶あり、南に井月あり」とあるが、〈在りし世の憂さをも語れ鉢叩き〉と、放浪の先人、半僧半俗の空也僧の鉢叩きに思いを寄せたり、その影響を受けた捨て聖、一遍上人の生き方を倣った一杖一鉢の真の無一物の人だった。一遍は芭蕉の放浪を生んだ。とあれば、そんな人が寄って向った伊那谷とはどんな集落で、どんな村人が待ち受けていたのだろうか興味と不安が尽きない。
 主役の井月を演じているのが田中泯だ。中央アルプスと南アルプスに挟まれた伊那谷の裾を、腰に酒用の瓢箪、手に杖ついてボロ着物でやってくる。井月の墓に参る田中泯が、井月になったり田中泯になったり、語り(樹木希林)に導かれて、風土の習わしに向かいあい田中が井月に入っていく。井月が伊那谷に迎えられた昔と、田中が映画で迎えられた今とが差異なく、村落の共同体の〈結い〉を存続させ、土着信仰を祭りながら生き暮らす営為に失ったものを発見する。だが時代は非情だ。時として夏の川に嵌ってはしゃぎ、〈美しくつよみ持ちける糸柳〉と、伊那人を褒め讃えた井月は、明治政府がとった廃仏毀釈で住処を追われ、徴兵と税金のための戸籍調査で棄民と排され、伊那の地に最後は野たれ死ぬ。秘かに心寄せていた放浪の先達、西行の命日と奇しくも同じ二月一六日だった。〈今日ばかり花も時雨れよ西行忌 井月〉
 こうして四年の歳月を要した映画『ほかいびと』は終わった。
 今年十二月封切り予定の作品に、伊藤俊也監督が撮った映画『始まりも終わりもない』がある。「究極の課題“人間の存在論”に迫るべく、映画の原点である世界共通語を目指すため、あまりにも安易に使われている言葉を排し、表現の核に田中泯の身体を据えた、画期的な作品が誕生した」とある。
 漆黒の海、打ち寄せる波、やがて少し明るさを取り戻した海にカメラが潜ると、海底に大きな丸石を抱いた裸の男(田中泯)が座している。石は浮力への抵抗か? 突如浮き上がってきた男は、浜の〈枯れ木〉が化石化した始祖鳥に?まり、何処かへと飛び去るが、夜になって月光に照らされた爬虫類のような男(田中泯)が岩浜に上がる。それは人間の祖先だといつか学んだ海の魚竜イクチオザウルスではないか!? すると二億五千年前、人間は爬虫類だったのか? 爬虫類なら空を飛ぶはずだ。別所では女(石原淋)が下半身を押さえて呻き苦しむ。女が分娩時に発した巨大エネルギーは火となって燃え広がり、焼け跡には赤子が残された。ああ、そうだったのか、沈んでいた男の海は母(石原淋)の羊水だったのかと分かる。不安に怯える赤子は未知の世界に投げ出されていく。二本足で立とうとするが斜めにしか立てなくて転ぶ繰り返し。いつか観たスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』('68)を想起した。旅の途中で出くわす荒野の岩山は、ピエル・パオロ・パゾリーニの『アポロンの地獄』('67)か。現代都市に現れた背広を着た男が車の洪水の中を這い蹲う。裸になった(否元々が裸だった)男が車のライトや街の灯りに時折り照らされて、闇をのろのろと這い回る、女の掌には羊水が湧き出で、陸に上がったイクチオザウルス=男は、先の浜で拾った〈枯れ木〉を担いで行き場所がない。男にとって〈枯れ木〉はモノリスのつもりなのか何なのか。
 「夜の闇の暗さは、見えない世界に踏み込んでゆく不安と、存在していないはずの物事を空想してしまう僻にとまどってしまう僕自身と出会う貴重な機会だ。桃花村の夜は本当に暗い。生き物たちの秘かな呼吸に満ち満ちている。じっと辛抱して目を凝らすと、かすかに実体が見えてくる。厚くたれこめた雲が重くカラダにのしかかる。向こうに座っている人のような物がある。次から次へと終わりなく幽かな実体が定まることなく、そこかしこにある夜の闇」(田中泯『僕はずっと裸だった』工作舎刊)
 ベーコンにとって生きていること総てが絵だと言うなら、田中泯にとって生きていること総てが〈踊り〉だ。日々の農業も時にスクリーンで見掛ける俳優も総て踊りなのだ。来る二〇一三年十一月十七日十七時から。草月ホールに於いて京都賞受賞のセシル・テイラーのピアノと、田中泯は〈場踊り〉を踊る!