Flaneur, Rhum & Pop Culture
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『はじまりのみち』の時代を歩けるものならば
[季刊・映画芸術443号より]

VOL.18

 日銀新総裁の言として、二年以内に二%のインフレを目指して金融規制緩和を行なうと新聞が言っていた。原発の再稼働を明言して、環太平洋連携協定(TPP)に参加を宣言して、自衛隊の軍隊昇格を目論んでいる安倍総理大臣の政策に呼応した経済操作だが、この国は何でそんなに〈成長〉を欲しがるのだろうか。株が上がってニヤつくのはごく一部の投資家や金融業者でしかないだろう。マイナスにさえ〈成長〉という言葉を付与するのは、かつて日本帝国軍が敗戦を終戦、敗走を転進、戦死を玉砕などと欺瞞を弄した言い方をしたのと同じだ。哲学者の鷲田清一が「少子高齢化で二〇四〇年には四割以上が高齢者になるにもかかわらず、震災後わずか二年ばかりで、これだけ『経済成長』を連呼できるのは尋常ではありません」と呆れて、監督の井筒和幸は「世の中、愚かなことだらけだ。庶民だけが生きにくくなる。気晴らしと心の余裕の糧だった映画の上映システムも変質し始めた」と怒り嘆く。新聞の担当コラムの最終回を迎えた小栗康平監督が「コラムは四年にもわたってのものだったのですが、その間、私は次の新しい映画を撮れませんでした。忸怩たる思いが……この紙面は芸能ワイドというページで、映画もここで取り上げられています。でも映画の文字が消えて『放送&芸能』になってしまいました」とここでも嘆き節だ。
 勿論こんな世の中、嫌で愚かで想定外を想定できない時代、嘘臭くて虚妄に満ち満ちている。「生きていくのが嫌になっちゃった。でも歌っていくしかないもんね。広島で企画して欲しいんだけど」とつい先日あるジャズ歌手から電話があった。そんな依頼の企画に乗るのか! 実は乗るのだ。映画屋たちが安価なデジタル画像で撮るように、生死を賭けて音楽空間を出現させていくのだ、金にもならないが、自分のために。音楽や映画が時代を継いできたようにその時代その時代は単独で生まれた訳ではない。現代は前時代と、前時代はその前の時代と繋がっている。どうやって継いでいくかが問題だが、センソウ、ゲンバク、ジライ、レッカウラン、オキナワ、ミナマタ、カドミウム、カネミユ、チョウセン、ブラク、ヒロシマ、フクシマ、ゲンパツ、ヒバク、ホウシャセン──人間が自然に放った人災物件は増えるばかりで、長い歴史を経てもいっこうに解決に向かわない。そして、学者や知識人が「人間の尊厳が脅かされている」などと傲岸不遜に言う。共生などとおこがましい、自然に寄生して生きている人間が自然に害毒をまき散らして罰を受けているのじゃないのか。十四年も連続して三万人を超える自殺者を出している国・日本で、映画や音楽はそこから人を救えるのだろうか。
 今年生誕百年を記念した故木下惠介監督の随筆を下敷きにした映画『はじまりのみち』('13 原恵一監督)が製作された。昭和十八年『花咲く港』で監督デビューして、いきなり山中貞雄賞を受賞して才能をみせた木下惠介が、翌十九年に四本目の作品『陸軍』を撮ったが軍部の検閲が入り、国策映画の役目を充分果たしてないという理由で、次回作を中止にされる。失意の心で辞表を出して本名に戻った木下正吉が、脳溢血で倒れた母を見舞うため、実際、故郷の浜松に帰った時期の物語りだ。
 日本映画の歴史に偉大な足跡を残した木下惠介ではあるが、個人的にはそれほど好きな監督ではない、はずだった。小学生の頃から俺は、監督を世に言われる如く軟弱で女々しく思ったからだ。『二十四の瞳』('54)や『野菊の如き君なりき』('55)の、お涙頂戴の叙情味たっぷりの映画は、被爆都市ヒロシマに疎開先から転校して来て、ひどいいじめにあっていた転校生としては馴染めなかった。いじめから脱却した中学生で観た『喜びも悲しみも幾歳月』('57)も同じ印象だった。ところが学年単位の映画鑑賞会で連れて行かれた『楢山節考』('58)には史実と教えられ恐々と見入ったが、多分作風から同じ監督だったとは当時頭に無かったのだと思う。
 『はじまりのみち』は昭和二十年六月末、日本の敗戦直前に、浜松に帰った子が母を思い母が子を思う親子の情愛を、絹糸のように繊細に滑らかに且つきりりと描いていく。間にインサートされる木下名画の数々──南九州の港町で造船所を造ろうとして失敗したが、漁民に尊敬された男の遺児を名乗る詐欺師の二人組(小澤栄太郎・上原謙)がやってきて、造船をでっち上げて金品をだまし取ろうとするが、船は見事完成するという『花咲く港』はお洒落な喜劇だった。浜松の地方都市も戦局はいよいよ激しくなり、三里離れた北の山間の気田に疎開することになった時、母をリヤカーに乗せて山を越えて運ぶことに決める。監督がいかにこのエピソード部分に真随を描こうとしているのが分かる。人間木下惠介を分析するのに格好のエピソードだということ。
 差別や蹂躙に反対し、戦争や軍隊を憎み、人間の愚かさや卑しさを、無垢な心をそのまま透視して、人に寄り添う愛情の持ち主ではなかったか、そんな〈肯定〉の心の人が実は頑迷で、透徹した意思を通すときは苦労を厭わず腕力を発揮する、両面の精神性を描きたかったのだ。試写室の時空が動いた。自動記述のように様々な想念や記憶が現れては消えた。疎開、リヤカー、引っ越し、母なるもの、同じ過去が重なりあい溶けあった。もはや映画の良し悪しなどというものではなくて、映画の力だった。俺はその時『はじまりのみち』のスクリーンの向こう側にいた気がした。
 映画内映画が続く。『お嬢さん乾杯』('49)は、旧価値から新価値へと転換の時代、主演が原節子で脚本は新藤兼人といえば、『安城家の舞踏会』('47 吉村公三郎監督)がすぐ浮かんでくるが、木下惠介はここでも、原節子を転ばせたり、相手の手袋に接吻をさせたり、喜劇映画に仕上げている。『破れ太鼓』('49)の一家の主人は無教養だが戦後のどさくさで儲けた土建成金で、時代劇俳優の阪東妻三郎に現代喜劇をさせているところが、天才木下惠介の恐るるところだろう。
 『カルメン故郷に帰る』('51)は、東京でストリッパーになった女二人(高峰秀子・小林トシ子)が、やってることが芸術だと信じて、故郷へ凱旋にいく話で単純に面白い。『永遠の人』('61)は、熊本阿蘇の昭和七年から始まる話。出兵している婚約者を待っている娘が、先に復員した村長の息子に強姦されて、無理矢理結婚させられる。やがて復員してきた婚約者と当然揉めるが、村長の理不尽な暴力には勝てない。日本の〈旧制度〉が全員を崩壊させていく。煉獄の妻を演じているのは高峰秀子だが、“昔ひとりの女が娘に言った。手込めにした間男の妻に無理矢理……” ギリシャ悲劇のコロスのようにフラメンコギターが歌い囃すと、まるで重量級の喜劇作品の出来上がりだ。
 先日ETVでヴィクトール・フランクル原作の「夜と霧」を読み解く番組があって、ユダヤ人のフランクルはアウシュヴィッツの収容所で、苦悩と死をどう生きるかという極限状況で、「苦しみに意味があるのか」と自己を問いつめ、「苦悩からの脱却はない。苦悩するために苦悩する」と位置づける。収容所で催す演芸や音楽を楽しんだり喜んだりする人を見れば「何かのため、誰かのために苦悩する」視点が生まれる。すると「美や愛や創造する喜びが生まれる」というのだ。何故か木下惠介に同じ視点を見いだした。
 そしてラスト。口の利けない母が書いた紙には「また、木下惠介の映画が観たい」と。諭されて撮影所に戻っていく木下惠介と、問題の映画『陸軍』の戦意高揚足りえずとされた、田中絹代が出征する我が子をやっと捜して涙で見送る、十分に及ぶ圧倒的移動撮影シーンが重なった。