Flaneur, Rhum & Pop Culture
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傲岸不遜なゴダールを解剖した謹直な男
[季刊・映画芸術439号より]

VOL.14
 2010年1月、横浜市で開催された「脱原発世界会議」のシンポジウム「世界のヒバクシャから学ぶ」に来日した先住民族アボリジニで「オーストラリア非核連合」のピーター・ワッツ代表が、「ここにいる〈兄弟〉たちに申し訳ない」と切り出し、「私たちの国で取れた資源が、核兵器や原発建設を手助けしてしまった」と言って詫びた。オーストラリアのウラン埋蔵量は世界一だ。それを読んだ俺は昔のある薄ボケた事実を思い出していた。それは1959年7月、広島の原爆記念資料館を訪れたチェ・ゲバラがキューバ危機回避後、コンゴに入ってソビエトも批判したが革命に失敗した六六年、コンゴからボリビアに入り、カストロに「別れの手紙」を書いた後、〈二つ、三つ…数多くのベトナムを作れ。これが合い言葉だ〉と世界に発信して、CIAの援助を要請した政府軍とのゲリラ闘争に入り、67年10月8日、捕えられて銃殺された。コンゴでは、六五年のクーデターを起こしたモブツ軍事独裁政権が三十数年後崩壊。21世紀になって、広島を訪れた民主解放内閣の外務大臣が、「私たちの国で取れたウランが、こんな悲惨を生んだ」と謝罪した。
 2月になって、「ゴダール映画史(全)」が、筑摩書房のちくま学芸文庫から再版されたことを知った。七百十数ページに及ぶ重厚な文庫本を手にとると震えた。ジャン=リュック・ゴダールの「ゴダール映画史」は、同じ筑摩書房から82年にハードカバーの上下巻で出版されていた。当たり前の話だが、単行本も今回の文庫本化も訳者は奥村昭夫(てるお)だった。彼が死んでいたのを知っていたからうろたえたのか。いや、うろたえる程親しい訳でもなく、ここ何十年もあっていなかったくらいだ。2011年7月25日、癌にて死去。昨年末訃報を知った。では何故? 黙々とあまりにも黙々と厖大なゴダールの翻訳に身を捧げた上、死しても世間に知らしめず密やかに鬼籍に入り、ゴダールに圧倒的に近い存在の日本人だったのに、対面や私信の類いを一切避けていたのを知っていた故、死して全うしたことの見事さというか帳尻の合わなさというか、ない交ぜになって一瞬に込み上げてきた勢だ。そして追い討ちをかけてフィードバックしてきたのが、先述の《60年代》だった。
 1968年2月、劇団青俳の養成所公演をボイコットした前川信也と新裕子と俺は、募集もしてないのに演劇集団・変身に入れてくれと言って入団が叶った。同年、青俳は分裂して脱退派は現代人劇場を立ち上げ、翌年には蟹江敬三、真山知子、岡田英次主演、清水邦夫作・蜷川幸雄演出「真情あふるる軽薄さ」を、ATG作品上映館・新宿文化で最終回上映が終わった後、上演した。どっちに所属してたら良かったのか、運否天賦は皮一枚だった。
 奥村昭夫はやがて変身に顔を出すようになったが、1967年に16ミリ自主制作映画『猶予もしくは影を撫でる男』で、第一回草月実験映画祭の最優秀映画賞を受賞していた。同年、ゴダールは問題作『中国女』を撮ってベネチア映画祭審査員特別賞を受賞した。1968年10月の粟津潔、飯村隆彦、武満徹、勅使河原宏、中原佑介、松本俊夫、山田宏一編集による雑誌「季刊フィルム」創刊号は、ゴダール特集になっていて『中国女』のシナリオも掲載している。J・P・サルトルが言う〈政治参加〉をゴダールが実験的に投げかける映画で、ソルボンヌ大の哲学科教授のフランシス・ジャンソンを〈出演〉させて、実際の生徒だった主演のアンヌ・ヴィアゼムスキーと対話させている。つまり、映画内に〈現実〉を持ち込むことによって、映画が映画でしかないことへのアンチテーゼとして、映画の領域を超えようとする観点から、映画内で〈第二、第三のベトナムを作れ〉と問いかけた。この映画は、次回作の『ウイークエンド』(67)への出演を断わったフィリップ・ソレルスや、かって『アルファヴィル』(65)への出演を断わったロラン・バルトらに攻撃された。フィリップ・ソレルスは、ル・クレジオらとともに新進気鋭の〈ヌヴォ・ロマン〉の小説家で、ロラン・バルトらと〈テル・ケル〉誌の一派だった。気鋭の文芸評論家ロラン・バルトは、「マルクス主義と構造主義を総合した批評性で話題を呼び、映画の構造的分析においても勇名を馳せていたが、ゴダールは〈構造主義〉を毛嫌いし、『映像と音響なき構造主義などあり得るだろうか?』と釘を刺し、『あなたがた構造主義者は、私たち映画作家の父じゃない。私たちの父はホークスであり、ヒッチコックであり、ルノワールである』と皮肉った」(前記「季刊フィルム」訳註)。
 同年、奥村昭夫の第二作目『三人でする接吻』に変身の俳優谷川俊之と前川信也が出演した時、東京フィルムフェスティバルでは、麻布高校生だった原將人(当時正孝)が仲間と作った16ミリドキュメンタリー映画『おかしさに彩られた悲しみのバラード』が、プロ監督らを抑えてグランプリを受賞した。68年の映画史において事件でありエポックメイキングな出来事だった。影響を受けた村上龍は、自伝的小説「69」で相当触れている。原將人もまたゴダール影響下に育った映画少年で、『女と男のいる舗道』(62)に倣って章立てにした短いシークエンスで組み立ててあった。すなわち、ゴダールは『中国女』と同様、『女と男のいる舗道』で哲学者ブリス・パランを映像の中の〈現実〉として出演させて、主演のアンナ・カリーナと対話させている。俺はゴダール映画でこの映画が一番好きで、このシーンが一番好きかも知れない。
 天才少年出現にショックを受けた12月、マルチ演劇を提唱する円劇場の「靴の惑星」に客演した。作池田正一、演出小池史朗、出演亀山孝治で、京都大の薔薇座出身の三人が演出部だったが、バリケード・ストライキ中の東大劇研及び学生会館施設が稽古場だったのは、東大OBの奥村昭夫の手配ではなかっただろうか? 東大の湯島寄りの龍岡門から入ると、左に東大紛争の火種となった山本義隆率いる青医連の医学部があり、突き当たりに学館はあった。そこで出入り自由、布団も業者からレンタルして寝泊まりしながら稽古をやっていた。68年12月と言えば69年1月18、19日のあの安田講堂の攻防のほんの一ヶ月前だ。出演は谷川俊之、青目海、前川信也と俺、変身の女優五名、ガリバーが美術でいて、今や演劇のシスカンパニーのボス北村明子が何故かいた。わが中大もバリスト中で、リンゼイ・アンダーソン監督の『if もしも…』(68)の世界がそこかしこで〈現実化〉していた。
 時代は進んで1970年、奥村昭夫は初めて35ミリで『狂気が彷徨う』を撮った。江戸時代に出来た横須賀沖の第二海保(台場)があった猿島がほぼロケ地だった。出演は又もや変身の堀内博、寺田柾、椎谷建治、後京子、中島恵美子(奥村未亡人)だったが、15年前に唯一俳優で死んだ椎谷建治(十六回目の偲ぶ会をこの3月30日「レディ・ジェーン」でやったばかりだ)の履歴には、“デビュー作『狂気が彷徨う』”となっている。瓦礫の島からベトナム戦争下の日本の時代状況を射ようとしたこの映画が、ゴダールならぬサム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』(69)へのオマージュに思えてしまうのは、彼と映画談義になった時、ペキンパーの話に落ち着いて、中でも『ワイルド・バンチ』だったというのが、記憶の上では最後に交わした言葉だったからだろうか。
 とまれ、《映画史上の名画と自身の旧作を上映しつつ個人史を自由に語るというユニークなこの連続講義は、空前の映像作品??『映画史』Histoire(s) du cinemaへと結実する。語りを超えて映像と音からつくられる“真の”映画史は、ここから生まれたのだ》と語る人が「解説・青山真治」となっていたのも、残酷な輪廻に思えて、それも震えの一因だったかも知れない。

*アラン・ベルガラ編、奥村昭夫訳「60年代ゴダール・神話と現場」が筑摩書房から今夏刊行予定。