Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












<芸術>と<政治>の狭間の海に放り出されて
[季刊・映画芸術434号より]

VOL.9
 一九七二年の夏の夜だった。ベタつく汗を拭おうともせずに、風のない部屋の板の間に使い古した雑巾のように身を投げ出していた。場所は下北沢の一駅先の世田谷代田駅を降りるとすぐ環状七号線があり、その代田四丁目の信号を渡ってすぐ裏だった。酒は飲るけど芝居のことも生活のことも考えることを拒絶して、他にはたまに本を読むくらい、下北沢のバー「どーむ」のバーテンダーも辞めていた。五月二十三日から三ヶ月は経っていた。舞台美術家の睦子、元劇団の後輩で映画女優の加代子、同じく後輩で五年間同棲していた英子の3人が、共同で2LDK庭付きのアパートを借りたのだが、大家と契約を済ますと預かった鍵をその場で環七に投げ捨ててしまったので、誰も出入り自由だった。それは不用心すぎると、俺が用心棒を買って出て食客として居座ることにした。演劇人になった挫折気取りの男の様だったが、横たわっていて堕ちていく快感を身体で味わうことを憶えた。電球も付けずに居る部屋から見える、月明かりに浮かぶ庭のカンナが血のような汗を噴き出していた。
 七一年九月、所属していた「演劇集団・変身」の解散公演を日比谷の野外音楽堂(収容三千名、作者は野外上演を指定していた)で四日も公演をやった。ジャン・ジュネ作「屏風」、延べ登場人物三百人、上演時間五時間、稽古期間六ヶ月半、共演・山下洋輔トリオ、写真・荒木経惟という小劇場ではあるまじき規模の設えだったが、それよりあるまじきだったのは、既存ステージは客演の山下トリオに譲り、舞台は主に俺たち男優がイントレで設営した三ステージを、現場稽古で三回、本番で三回計六回も設営解体を繰り返して、舞台に上がる頃は身体はぼろぼろだった。それでも日活最後の上映作品が気になっていて、時間を盗んで『八月の濡れた砂』(監督藤田敏八)、『不良少女魔子』(監督蔵原惟二)を観ないわけにはいかなかった。世間にもの申す点では度を超した快感だったが、もうこんな芝居は止めようと思って居た最中に、寺田柾を座長にその残党十人で創ったのが「演劇軍団・変身」で、翌年明けから稼働した。
 二月初旬に稽古を始めた作品は寺田柾作・演出「木乃伊(ミイラ)伝」、四月十五日から五日間、五月十五日に返還が決まっている沖縄で立ち上げた。その後鹿児島から一県一県を回って東京に五月二十二日〈凱旋〉した。米軍の野戦テントを現地で手に入れた。二千ドル位だったと記憶しているが、当時のスミソニアンレートで一ドル三百八円だったので、六十一、二万円だったろう。『キャッチ22』(71監督マイク・ニコルズ)みたいな軍需物資の横流しだった。舞台と照明音響ブースを確保して百名ちょっとのキャパだったから、それなりの大きさだった。雨が降るとテントの周りに溝を掘って水はけをした。水分を含んだテントは数倍重く作業が十倍難航した。又もや設営とバラシの繰り返しが東京まで一ヶ月続いた。しかも移動は四トン・トラックの荷台だった。肉体の鍛錬の意味をはき違えた土方的酷使だった。しかし、ヤポネシア縦断の思想はアメリカと沖縄米軍に向かっていて、ヴェトナム戦争と嘘だらけで契約された沖縄返還にノーと言う行動だったし、テントは米軍に一歩入っていった気分に高揚させたし、ヤマトンチュウをテントに封じ込める意図もあったし、身体的疲労感は激しくても視点はぶれずに緊張感を持続した。
 緊張感を持続したと言えば、私的にはもうひとつあった。稽古を終え壮行会も終え、渋谷保健所で健康診断、品川検疫所で予防接種を終えて、第一陣が出発した四月五日、既に申請していたパスポートを有楽町にあった総理府窓口に取りに行くと、「下りていません」と言われた。再申請して翌日行くと「下りていません」だった。再々申請しても同じだった。不審に思い当時の沖縄出身の上原康助代議士に連絡を取ると、見ず知らずの依頼にも翌々日電話をくれて、「君のリストは沖縄米軍司令部に行っているので手が出ない」だった。狐に摘まれた思いだったが国家権力とは摩訶不思議だ。万事休すだったが、十五日の初日が開かない不安におびえた俺は、東京在の沖縄青年同盟の某氏に、新宿成子坂の行きつけだった沖縄料理屋の「壺屋(チブヤ)」で、早稲田大学四年の嘉勢本曙(かせもとあきら)君を紹介してもらった。「五月十五日で不要になるので自由に使ってください」と言われて彼のパスポートを手渡された。俺は写真十枚、2B、3B、4Bの鉛筆、太さの違う鉄筆三種、トレンシング・ペーパーを手に入れ、薬缶の空気穴の蒸気に当てて、〇、一ミリずつ嘉勢本君の写真を剥がすことから始めた。そして杉並区井草○○の現住所、実家の八重山郡竹富町西表○○、生年月日、血液型、家族の名前、を頭に入れた。羽田空港の税関を通って那覇空港に着いたのは、ぎりぎり初日前日の十四日だった。
 六四年、弁護士になろうと大学受験で広島から上京して一浪し八年経っていた。代田四丁目の女の館で落下感の快楽を味わいつつ思いは過去に向かった。最初のアパートは場所も分からず東府中に決めた。米軍司令部が裏手にあって、深夜二時や三時になっても女の嬌声が聞こえていた。経済的に自立することが条件だったので、母の知人を尋ねるとそこはビル管理会社で、勤務地は原宿駅前のマンションの走りだった「コープ・オリンピア」だった。夜勤の上水道や空調が主な仕事だが、ある夕方室内機を調べにその部屋に入ると、京マチコがソファーに座っていた。俺のヰタ・セクスアリスと言えば京マチコを於いてなかったから、それは事件だった。『地獄門』(53監督衣笠貞之助)に『鍵』(59監督市川崑)。『甘い汁』(64監督豊田四郎)は観たばかりだった。浮かれた俺は喫茶「レオン」や野獣会の溜まり場「ブラッキー」を覗くようになった。大体同じマンションに居ると思えば、地下二階の機械室の簡易ベッドには寝れたもんじゃなかった。坂本社長の誘いで東府中のアパートから立川の米軍ハウスの離れに移っていたが、バイト料の支払いで社長と喧嘩して「コープ・オリンピア」は辞めた。俺は経堂に越して、歌舞伎町の「チボリ」というイタリア料理店を働き口にした。二十四時過ぎるとクラブやバーのママが客連れで来て、チップを良くもらった。三時過ぎるとトルコの姉ちゃんたちがやって来て、酒や料理を奢ってもらった。店の常連で後テレビ芸能界のドンになっていったNETテレビ(現テレビ朝日)の皇(すめらぎ)達也に良くしてもらったことが縁になり、七〇年に売文の芸能ライターになった時は何回もお世話になった。
 六月から七月になっていた。思い出したように学校へ行くと、自治会の学生がマイクでアジを叫んでいてうるさかったし、多分既に法律家になろうとする意欲は失せていたのだ。現実は旧スピードで動いていた。演劇部が入部を誘ってきたので入ると学年末に委員長にされた。演劇が俺に反米、ヴェトナム反戦、ジャズを再燃させた。飛んで六七年、学生は学生だと劇団青俳研究所に入った年の十月八日、羽田闘争で山崎博昭は死んだ。第二次の十一月十二日、俺は右腕骨折口内十針の負傷した。年が明けて六八年一月エンタープライズ闘争、二月王子野戦病院闘争、三月三里塚闘争。ジャズは「ジャズ・ヴィレッジ」、ライブは「タロー」、映画は『水の中のナイフ』(62監督R・ポランスキー)、舞台は状況劇場の「由比正雪」(作演出唐十郎)、バイトは羽田空港だったが、幻想は『灰とダイヤモンド』(58監督A・ワイダ)のマチェックだった。
 
 今日も深夜の羽田に僕はいた。機体も窓も黒塗りした一機のジェット機が 羽田に滑り込んできたのは、未明の四時頃だった。「今からやることは機密事項だ」と班長は言った。キャビンの中にはヴェトナムに死に行く軍服に銃の米兵どもがびっしりと詰め込まれていた。何故こんな屈辱に甘んじるのだ!
 キャビンの前部からゴミと灰皿を替えながら、「長距離ランナーの孤独」のシリトーだったらどうしてたのか? 反吐が出そうな気分の口を片手で押さえながら、最後の一席まで終えるしか無かった。うろたえる僕の後ろで“エクスキューズミー”と誰かが言った。思わず振り返ると班長だった。日頃から頭に来ている班長が、化け物のキャビンの中で僕に“エクスキューズミー”と言ったのだ。激しいショクで、思わず米兵の機銃を取り上げて、班長を殺したい衝動に襲われた。でも作業は三十分ほどで終わり、これで今日の金はもらえるのだ(一九六八年八月十八日の日記)

パリの五月革命も、プラハの春も関係なく、一九六八年が俺の転換期だった。