Flaneur, Rhum & Pop Culture
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どの川にもその川で生まれた楽器がある
[季刊・映画芸術にて連載中]


VOL.21

  〈あなたは佐々木昭一郎を知っていますか〉というキャッチフレーズで、CSテレビの日本映画専門チャンネルの番組で六月、佐々木昭一郎全作品十六篇を年代順に放送していた。佐々木昭一郎はNHKの演出家として、一九七一年、“お母さんの顔は見たことなかった。今でも見たことないよ”と万博を背景にしたドラマ『マザー』でデビューした。ドラマと言ったが、実験性に溢れていて、俳優ではない何処かで見つけた若者を主人公にして、ある状況設定はするが、台本はないので、その人物に合わせて言葉を紡いでいく映像詩の一篇なのだ。それ故その想像の連鎖は、現実と過去や場所の記憶の移動を、ストーリーを脱却したところで自由自在に駆け抜けて行くので、五感を映像に委ねて観る他はない。この前衛ドラマは放送当時、忽ち噂になった。今日でも異質であり、何とも形容し難いカテゴリーの作品群が今纏めて観れる嬉しさに、六〇年代〜七〇年代のわが青春の思い出が重なった。

 個人史になる。六七年春、演劇青年といっても大学の演劇研究会の学生で、基本的には委員会であらゆる事項を決定していくのだが、殆ど自分の好きなように二年間動かしてきた実感があって、これはもう学生演劇は学生演劇の域を出ないと判断した。それで青俳という劇団の俳優養成所に入った。不良研究生だった。バレエや日舞は当然厭だと思い、演劇史や演技論の講議もさぼって、ワイダやカワレロウィッチ、レネやヴァルダの映画を観に行った。当時はガリ版刷りのモノも含めて、情報の集積所紀伊國屋書店一階は非常に重要だった。日々の行動地点は大学のお茶の水、養成所の南麻布、紀伊國屋とジャズの新宿、そして生活源の羽田空港貨物だった。大学はそれ程行かなくなっていたから、養成所に顔を出せば出したで、無遅刻無欠席の同期生に、「偉いね。映画も芝居も知らねえで何を頑張ってるんだ、イモ!」と意地の悪いことをやっていた。ビートルズが来日した前年も、「何騒いでるんだ? ロリンズやマイルスを知らねえのか」と冷たく反応してローリング・ストーンズに寄った。映画も『マイ・フェア・レディ』(監督G・キューカー)や『サウンド・オブ・ミュージック』(監督R・ワイズ)などでなく、『水の中のナイフ』(監督R・ポランスキー)や『日本春歌考』(監督大島渚)だった。サントリー角ならブラックニッカだ、これは通常ホワイトだったな。中央教育審議会が発表した〈期待される人間像〉には、芝居で〈期待されない人間像〉を打ち出して対抗した。この年、ベトナム戦争に急激に加担していった佐藤内閣下、羽田で二つの事件があった。芸術と政治のからみの中で、政治の属性としての人間というこだわりに囚われたのが、腕は折れるは口内はボロボロになった。芝居に対する認識の甘さを痛感し、結果として六八年一月のエンタープライズ寄港阻止で街頭は最後にした。

 そして三月「変身」という演劇集団に入ったのを期に、身辺整理と称して大学を辞めた。中井のアパートを出て、東長崎の後輩のアパートに身を潜めた。ある日そのアパートに私服がやって来た。飯を食おうと言ったので罵倒して追い返した。どう調べたのか恐るべし日本の官憲、慌てて引っ越しを決めたが、金が無いので又あの悪しきだが稼ぎになる羽田のバイトに戻った。ある夏の深夜、窓も黒く塗った一機の黒い機体が滑走路に降り立った。グアム基地から給油で寄港したベトナムに死者を運ぶ輸送機だった。機内には銃を手にした兵士がゾンビのようにビッシリ詰め込まれていた。沖縄返還を数年後に控えて、日米軍事同盟の絆を強める政府の片棒担ぎという逃れようのない現実だった。羽田の仕事は遂にやめた。豪徳寺に引っ越していた俺は、現場を渡り歩く天井張りの仕事をバイトにしていた。闘争はすっかり縁薄くなり、ジャズも遠くなっていった。十月二十一日、現場は大塚駅前の銀行だった。深夜に及んだ仕事を終えて、小田急線の構内に入り込んだのが後の祭りで、二十四時、後から知ったが(皆そうだった)騒乱罪が発令された。とその時信じられぬことだが、東長崎のアパートで食事に誘った新宿署の私服が数メーター先にいた。俺の名を叫び指令を出すや八方ジェラルミンの盾に襲われた。目一杯二十二日間留められた。劇団の勉強会でジャン・ジュネ研をやってきていたが、これで更に磨きがかかり、更に年の暮れに観た、ゴダールの『気狂いピエロ』に後頭部をやられてというもの、恐いもの云々というより、破滅へ向かうアナーキーな傾斜に魅かれていった。ロープシンの「蒼ざめた馬」が好きだった。

 六九〜七〇年丸二年間、テレビドラマや児童演劇のぬいぐるみ、東映大泉の養成所の講師、他劇団の舞台監督、企業イベントの演出、週刊誌のリライター、東スポ芸能記事は冷や汗ものの毎日連載だった。芝居に熱を入れなくなったので生活は楽だった。その金は競馬に回り人生占いだと言い訳した。空気が漏れているような日々、堕ちてゆく快感を楽しむ偽悪を気取っていた。

『マザー』に続いて『さすらい』は七一年に佐々木昭一郎が演出したNHKドラマの第二弾だった。主人公のひろしは何をしてよいか判らない孤児だ。友川かずきは歌が歌いたくてしょうがない。だが“とても正気じゃ歌なんか歌えない いつ殺されるか分からないからね”と歌って、映画の看板絵描き屋の下働きをしている。迷走中の自分が出ているようだった。不整合だらけの作劇術に加えて、ドキュメンタリーのようでいてそうでない表現が、故に強烈にしみ入ってくるのだった。路地の角から真ッ赤なミニワンピースを着た栗田ひろみの出現、遠藤賢司が無人の野音で歌う「カレーライスの歌」、三沢基地で笠井紀美子が生き方を喩しつつ“ How Can I Live ”と見つめて問う歌。友川が自立しようと池上の三畳のアパートに引っ越して歌う“捨てたもんじゃない”「池上アパート」が身に沁みた。現実の友川かずきと等身大だからだ。光と風景が混じり合い乱反射する。ひろしは自分に語る──一つの時母親の子守唄が遠ざかるのを聞いた。二つの時兄さんの背中におぶさって口笛を聞いた。三つの時学園のファーザーの賛美歌を聞いた。兄さんの口笛はもう聞こえない──ひろしは繰り返してさすらう。さすらって繰り返す。そして成長する。そして『夢の島の少女』( 74 )は詩情に満ちていて、物語を綴れ織るその源泉は、佐々木昭一郎自身の戦時中の幼少時の記憶であり、その記憶に想像力で夢を持たせることにある。その夢は多分音で出来ている。パッヘルベルの「カノン」だ。少女を演じる中尾幸世は以後、佐々木作品の聖女になるのだが、成長した彼女がピアノ調律師となって演じる『四季?ユートピアノ』( 80 )では人々との出会いを通して音をつかむ旅が描かれる。A子の身体には音叉が鳴っているが、亡き父は音におびえていたとしてきれい事では済まさない。佐々木昭一郎の記憶がここでも悲しく生きているのだ。音への純粋反応がある。例えば“妹への手紙。川の日記。ドナウ川を見たよ、Aの音が聞こえていたよ。ドレミファのラ、赤ちゃんの産声は何故Aなんだろうね。何処の国でも何故だろう”と問いかける『川の流れはヴァイオリンの音』( 81 )は、“どの川にもその川から生まれた楽器がある”という発想から、調律師A子の世界を巡る音の旅が、イタリアのポー川から始まる。以後ドナウ川。おっとスペイン篇は「川を見せないでいかに人間の意識の川を表現するか」だ。次いでチェコスロバキアのロン川の流れと続く。

 テレビの世界にありながら、一般視聴者はおろか多くの映画監督たちを羨望させた佐々木昭一郎は、独特の映像美を表出する〈ディレクターズ ディレクター〉と言えるのではあるまいか。