Flaneur, Rhum & Pop Culture
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一九六四年は昭和でいえば三十九年
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.19

 数年前から“昭和昭和”と世間がうるさい。昭和歌謡はポップス歌手からジャズ、クラシック歌手がカバーして競いあっている。本も多種出版されるわ昭和グッズを売る店はあちこちに増えている。俺の場合、昭和といっても三十五年から四十五年、つまり一九六〇〜七〇年にこだわりがある訳だ。一部にこのディケイドを異議申し立ての年という。今の若者の知らない昭和ということになる。でも最近の映画で言えば、『69 sixty-nene』(04/監督李相日)、『カーテンコール』(05/監督佐々部清)があり、つい昨年暮に封切った『ALWAYS 三丁目の夕日』(05/監督山崎貴)は、並みいる洋画を押しのけて配収トップを確保していた。昭和三十三年東京タワーは建設中だった。メンコ、ビー玉、鼻水を拭く袖口はテカテカ、はしゃぐ少年たちと下町に暮らす大人たち。民の竈の煙の少なきを見て税の取り立てを思い止まったと日本書紀に示す、仁徳天皇の徳が信じうるかの如き時代の錯覚があり、司馬遼太郎が「明るい日本がやってきた」と喜んだ戦後日本の立ち直りを、セピアカラー越しの日本的湿度の中に描き、善意を押し鮨弁当の如く詰め込んだ薄っぺらく計算された感動が、下町の庶民レベルにある。〈家族で楽しめるファンタジー〉―俺の広島の同級には、臭くて誰も近寄らないどじょうを取って暮らすドブ沿いの家のK子や、実姉がパンパンで屈辱の日々だったM子、綺麗だったが妾の子で、鬱蒼と蔦のからまる家で人付き合いを忌避する暗いR子がいた。北見けんいちの漫画「元気くん」じゃあるまいし、当時の昭和を家族で楽しむ芸当は出来ない。
 豊田四郎の文芸作品に高見順原作の『如何なる星の下に』がある。六二年製作だ。小さな釣り舟が幾艘も川面(隅田川)狭しと浮かぶ入江を、カメラ(岡崎宏三)がゆっくりとなめるファースト・シーンに、みさこ(山本富士子)のナレーションがかぶる。「この辺も汚い水になっちゃって、二十年前は白魚も住んでいたっていうのに、この先どうなることやら」と、川を描くだけで、おでん屋を商い両親を養うみさこの行く末を暗喩する導入部で、見事に観客を映画に入れていく。CGではない生の昭和の情景が映し出される。みさこの末妹の浅草レビューの踊り子大空真弓に熱を上げる、作家志望のPR雑誌の編集記者池部良を、そうとは知らずみさこは追いかける。記者の元妻の喫茶店のママ淡路恵子の良い人が、歌い手でプロデューサーもやっている植木等。この男にふられた売り出し途上の歌い手でみさこの次妹池内淳子は自殺する。みさこには別れたサギ師森繁久彌と横恋慕する舞台役者西村晃がいる。という風俗テンコ盛り映画だが、「人間は自分の星から変りはしないのさ」と座長の山茶花究が諦めて、総てが無情に瓦解して終える。既に大川が汚染される程経済成長期にあっても、思うにまかせぬ市井の人の暮しがあった。
 一九六四年早春、大学受験で広島から上京した。新幹線開通、モノレール開通、殊に渋谷駅周辺は、東急玉電と一部都電の廃止、玉川青山通りの拡幅工事、上は首都高建設とまるで街の姿も機能も麻痺していた。総て秋のオリンピックのためで、巨大都市東京は大手術台の上でゼイゼイ唸っていた。市川崑が監督した『東京オリンピック』はこの解体と建設から始まる。それらの労働力の担い手は、かあちゃんじいちゃんばあちゃんを三ちゃん農業に捨ておいて、出稼ぎに来た百姓と集団就職で上京した中卒の若者だった。裏面史的には、無理な経済成長の歪みがもたらした昭和電工初め、化学工場数社の爆発事故や、特に前年の三井三池炭坑の炭塵爆発事故は、死者四百五十八人、負傷者三十九人と産官一体の象徴的な大事故だった。対外的には椎名外相のヴェトナム加担発言があり、トンキン湾事件を経て米軍六十四機による北爆があり、原子力潜水艦の佐世保寄港あり、わがヒロシマを無視した中国核実験成功を「やむを得ぬ自衛手段」と擁護した日共の宮本議長がいた。原水協から社会党系は脱会して原水爆禁止国民会議を結成した。党利党略だった。それでも、沢木耕太郎が「1960」の中の「危機の宰相」にも書く、高度経済成長の仕掛人で「戦後日本の、ただひとつの借り物でない思想」である〈所得倍増〉をブチ上げた、池田勇人内閣の最後の仕上げが東京オリンピックだったのだ。そして井沢八郎の「あゝ上野駅」や新川二郎の「東京の灯よいつまでも」を差し水歌謡にして、三波春夫の歌う「東京五輪音頭」一色で踊り狂い、〈一億総白痴化〉した。
 四月二十八日には、ファッション、車、セックスを三本柱にした初の男性週刊誌「平凡パンチ」が創刊された。忽ち愛読者になったが、〇四年に当時の立ち上げ編集者だった(九八年代表取締役、現退社)赤木洋一が著した「平凡パンチ1964」がある。往時の新米編集者の実体験奮戦記なので中々面白く読ませる。先のそんな東京に馴染めず疎外感たっぷりと、「平凡パンチ」と「朝日ジャーナル」を小脇に、山手線の各駅のジャズ喫茶、ジャズバー巡りを何日か掛けて一周し、新宿に戻り街に潜っていた。歌舞伎町の殆どの店をのぞき趣味で知ることになるのだが、中でも二店の記憶は鮮明にある。「キーヨ」と「ジャズ・ビレッジ」だ。「キーヨ」は、以前も何かに書いたが、黒人がたむろして白石かずこが仲良くつるんでいる光景は、十代のガキには恐れ多く常連などとんでもなかったが、「ジャズビレ」は客番のリキ、昨十一月に逝った「唯尼庵」のキヨはキーヨと似ている発音が自慢だった。後に中上健次や俺たちの劇団に偶然入ってくることになった、店長の安田末範と常連の安永などが、酒とハイミナールでご機嫌だった。始発までねばり今でもあるという東京駅の東京温泉に行くのが定番だった。
 「文藝別冊」三島由起夫特集が昨暮れに出た。単行本未収録コレクション採録などもあって多面体三島を捉えている。中に「〈告白〉の誘惑」という伊藤氏貴の筆があって、或ることを思い出した。東京も慣れて学芸大学前に住んでいた秋の夜、自由が丘のバーで一人飲んでいると、慶応大学の講師だという白人が隣にやってきて、「三島は好きか?」と訊くから「初めて読んだ『仮面の告白』(初長篇)でかつてない私小説に会ってショックだった」と言ったら、自宅に招かれ寝静まった蒲団の中でチンポをしゃぶられた。これも同時代的体験だったのか。とまれ、キャプションに「没後35年・生誕80年」とあり、つまり昭和元年生れのどっぷり昭和を四十五年生きた三島の昭和を今検証しろということなのだろう。では『春の雪』(05/監督行定勲)から観るか、『みやび』(05/監督田中千世子)から観るか。新年の課題がひとつ増えた。傑作だろうが駄作だろうが、三島を避けて昭和を通り過ぎることは出来ないのだから。
 六四年は終ろうとしていた。今村昌平の『赤い殺意』や今井正の『越後つついし親不知』は古い社会因習を、黒澤明の『天国と地獄』は社会矛盾をあばいた名作だったが暗かった。ところがテレビは、オリンピックの余波を受けてか、NHKの大河が「赤穂浪士」なら、TBSは「七人の孫」に「ただいま十一人」と金満豪華キャストのドラマで勢いづき、「木島則夫モーニングショー」に続いた各局ワイドショーは、街のアイビー風俗やみゆき族を追跡してせわしかった。唯一六一年から続くNHK「夢であいましょう」だけは歩調を変えず、中村八大の曲を夜の茶の間に流し続けていた。
 今手元に大友良英がプロデュースして、さがゆきが歌った八大ソングの二枚組CD「see you in a dream」がある。今日ならではの様々な仕掛けが隠されていて、当時を現在化している。こなれた旨さで元歌を踏襲するなどはここには無い。昭和を相手のスタンスはそうでなけりゃいけない。