Flaneur, Rhum & Pop Culture
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「ふたつの黒い雨」の系譜とアンビバレンスと
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.17

 今年八月、「シネマアートン下北沢」で戦争映画特集を組んだところ、『激しい季節』(60)、『鞄を持った女』(60)、『シベールの日曜日』(62)、『国境は燃えている』(65)、『ミツバチのささやき』(72)、『ルシアンの青春』(73)、『ブリキの太鼓』(78)、『マリア・ブラウンの結婚』(78)、『リリー・マルレーン』(81)、『エル・スール』(83)と、選んだ欧州の名画すべてが入手不可能だった。初めて判ったことだが、日本での上映権は通常七〜十年で契約が切れて、字幕付きプリントは反古にされた後、上映権は雲散霧消が通常だという。又、ビデオグラム化権やテレビ放映権契約の方が余程ビジネスに適しているといえる。それにしても雑魚映画がこれ程生産されている今日、矛盾と言わざるを得ない。悄然となった。
 戦後が六十年なら原爆も六十年。前号と重複して申し訳ないが、昭和二十七年疎開先から両親の故郷広島に連れて行かれ、転校生と非被爆者故の被差別を受けた小学時代、映画館と貸本屋に潜り込み、内省の中学時代は映画と小説、広島脱出願望の高校時代は映画よりもジャズだった。ピカドンの町広島は、当時特殊な社会構造の生活区分けがあった。尾長や段原の朝鮮部落、福島町の未解放部落、太田川河岸の相生部落といわれた被爆者部落(原爆手帳も認可されず家もなく最悪の一角で、伝染病じゃけ近よるなと教えられた)、それと一般市民だが、昭和二十年生まれの同級生は九八%が手帳を持っていた。この胸くそ悪い町で俺は超マイノリティだった。映画よりも映画館が確保している闇がよくて、だから映画の光は無差別で結構だった。小学時代から反抗心より諦観を憶えて、否応なく大人びた虚無的な思考方法にならざるを得なかった。
 それでも小学三、四年の時に観た『原爆の子』(52)は衝撃的だった。学校で初めて連れて行かれた鑑賞映画だった。『愛妻物語』(51)で初監督した新藤兼人が自分たちの作品を作る意志を固め、近代映画協会の第一回作品として、故郷広島にカメラを向けた。被爆十日後、生き残った先生(乙羽信子)が教え子を訪ね歩く話で、原爆を初めて取り上げたこの映画には、被爆者が実際に出演していた。
 中学進学があっていじめの時代は脱したが、広島への嫌悪は益々募っていった頃、同じ新藤兼人の『第五福竜丸』(58)が自主製作された。五四年三月一日三時四十二分、ビキニ環礁で巨大な火柱が朝空を焼き、次いで大轟音が鳴った。それから雪のように白い死の灰が降り積った。広島の数千倍(今では二万五千倍が可能)の水爆実験の死の灰を、漁船第五福竜丸の乗組員は浴びた。赤字続きだった近代映画協会を何とかしようと思い、新藤兼人はこの事件に目を付けた。「こんな世界的事件を題材にすれば会社はすぐ飛びつくと思った。持って行くと“又原爆ですか?”と、ぼくの考え方と映画界は全然違うんだよ、興味が無いんだよ。僕は訴えたいと思ってるけど、皆は忘れたいと思ってるんだ」(NHK「究極のワンカットを求めて」より)と言いつつ、家を担保に入れてジリ貧で開始したが、フィルムは一〇〇フィートか二〇〇フィートずつ、フィルムが無くて中止の日もあったという。出来上がって公開するや惨澹たる成績だった。そして解散ぎりぎりに追い込まれて撮った最後の作品『裸の島』(60)は、人間の生への根源的な姿を描いてモスクワ映画祭でグランプリ(61)を受賞、世界中に売れて資金を回収した。そんなお蔭は、被爆者部落に住み、原爆症に悩む子供を抱える母が、その子の死を乗り越え新たな性と生に向かうたくましさを描いた『母』(63)を生み、後年の八八年、広島で巡演中に被爆した丸山定夫を中心とした移動演劇隊の九名の死を、『さくら隊散る』(88)で再現した映画劇を加えて四本、原爆を生涯の分かち難いテーマとする新藤兼人の野骨い真情をみる。
 六四年、ヒロシマに関わる単語や事柄に、コンセントが入る瞬間反応を擦り込まれた精神と五体は、疎ましく排他的な広島から逃げるようにしてオリンピック一色の東京にやってきた。東京は予想を大きくはずれ、街は危なっかしくて魅力的だった。学内外では拡声器に唾しながら、学生リーダーが教条主義をガナッていた。俺はすぐ教室を捨て街に出た。抱えてきた広島の矛盾は新宿の街に溶けて消えた。土曜日のオールナイト。五味川純平原作、小林正樹監督の『人間の條件』(59〜61)六篇九時間三十分という生涯かけた超大作があった。初年兵として関東軍に召集された男は、相入れぬ理不尽な規律に反発して、妻との幸せな日々から、上官の苛酷なリンチの日々へと急旋回する。次元を異にする露な暴力と、強者が弱者を残忍なまでに追い込むリアリズムの凄まじさに驚天した。それまで観てきた戦争映画は、とってつけた甘い感傷ドラマに過ぎないと姿勢を取り直した。小説を読むと、更に細かな、特に現地婦女子への残虐描写は想像を絶した。
 今、雑誌「東京人」が〈六八―七二新宿が熱かった頃〉という特集をやっていて、基本的にジャズも酒も映画も新宿だったので、わが青春の映画時代は正にその前後になる。六五、六年、初めてアラン・レネの傑作『二十四時間の情事』(59)と出会えた。シネマ新宿だったと思う。“ヒロシマ・モナムール”と副題の付くこの映画に触れる時、以後脳内地虫がジージーと、テーマ曲にかぶさって男女二人のモノローグが鳴り止まない。これ又擦り込みか。六七年の秋、レネの新作『戦争は終った』(65)がATG新宿文化で封切られた時、ベトナム戦争反対の〈戦争〉が羽田であった。京大生が一人死んだ。その夏には忘れられた映画、森弘太監督の『河 あの裏切りが重く』(67)がやはり新宿文化で公開されたばかりで、追認、幻想、拒絶のヒロシマの川面が『二十四時間の情事』と重なって揺れた。長い時間が経った八九年、今村昌平監督の『黒い雨』が海を越えてカンヌに渡った。九四年、高校卒業後三十年経ったヒロシマを眺めに俺は帰郷した。それから更に十一年経った今、『鏡の女たち』(02/吉田喜重監督)、『父と暮せば』(04/黒木和雄監督)が原爆映画の系譜に加わった。
 〇五年七月四日は雨だった。夢の島にある第五福竜丸展示館に向かっていた。地下鉄新木場に着く。――「こうと分かっていれば、自分は時計職人にでもなるべきだった」(朝山陽一「すごい言葉」)と言ったアインシュタインの言葉がフラッと浮かんだ。今年はイギリスのバートランド・ラッセル卿が提唱して、アインシュタインも同調した声明、通称「ラッセル=アインシュタイン宣言『水爆による人類の破滅』」から五十周年だという。ヒロシマ・ナガサキはおろかビキニの後の宣言になる。で、先の言葉だが、故国ドイツを追われたアインシュタインは、アメリカのルーズベルト大統領に〈マンハッタン計画(原水爆製造計画)〉推進を進言し、広島・長崎に投下後、惨事の大きさに驚嘆してそう言ったのだ。すごい言葉だ。
 第五福竜丸展示館でその日、「ピカドン・プロジェクト」の製作発表記者会見が行われていたのだ。九五年から始まった野坂昭如原作「戦争童話集・忘れてはイケナイ物語り」全十二話+「オキナワ篇」に続く、「ヒロシマ・ナガサキ篇」のアニメ映像化を始め、ライブ、出版等々の総合プロジェクトのこと。黒田征太郎、近藤等則、荒木経惟といて、安藤忠雄が海外で欠席だった。既に中上紀著「リオ 旅に出た川」と、近藤等則作詞作曲、都はるみ歌の「心の街」、佐原一哉作詞作曲、古謝美佐子歌の「黒い雨」の二曲入り、黒田征太郎絵のCDブック「ふたつの黒い雨」は出来ていて、いまにも動き出そうとしていた。野坂昭如のメッセージが読まれた。「戦争がいいとか悪いとかではなく、人間の営みとしての戦争と向き合っていくつもり」と。それが俺に果たしてできるのか!? 業だよな。