Flaneur, Rhum & Pop Culture
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二つの“カッティ”とシネマ・コンサート
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.11

 一九六〇年代末から七〇年代初頭にかけて「ドイツ体験派」といわれたジャーマン・ロックの数グループが現れた。彼らは西欧的な整合性を否定し、エレクトロニクスを駆使して基本的に単純なリズムを繰り返す機械のように演奏して機械文明を否定しようとした。その精神は旧社会や旧価値の解体と破壊に貫かれていた。それがディスコでダンスする程ポップスになっていった時代でもあった。つまり、優れてプログレッシブなロック・グループだったクラフト・ワークやタンジェリン・ドリーム、そしてジャーマン・ロックの牽引者的存在だったホルガー・チューカイ率いるカン等だった。
 当時、日本人がドイツと言った時に浮かべる固定イメージの暗澹、虚無、過激といったマイナスの印象は俺にもあって、それは圧倒的に一般的だった英米に対するアンチ・テーゼとしての像でもあるとして接近した。殆ど全員がクラシック音楽畑出身の彼らは、エレクトロニクスのドイツ前衛音楽の雄カールハインツ・シュトックハウゼンに傾倒する一方、以前から現代音楽家が実験していた、西欧音楽ではタブー視されていた「反復音楽」を取り入れ、それを自らの音楽の骨子とした。ジョン・ケージの影響を多少とも受けたラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラスたち、アメリカの現代音楽家の実験音楽は、使用する音譜や素材、作曲上の方法を極少にするという意味である「ミニマル・ミュージック」を提唱し今日まで続いている。ジャーマン・ロックの前述のグループ等はそれに範をとり、歌を乗っけてロックへの差別化をした。もっとも、T・ライリーのミニマルは草系っぽく、P・グラスが試みたエレクトリックなビートを全面展開する、渇いた鉱物的な質感とは随分趣を異にする。P・グラスの一定時間枠に押し込めて繰り返す反復構造は、時間の概念を廃棄させた。範といったが、P・グラスの音楽はブライアン・イーノの「環境音楽」のヒントになったり、ローリー・アンダーソンのデビューのきっかけを作ったり、その波動は枚挙に暇がない。なのに、俺はそれまでそれらミュージシャンは聴いていたのに、P・グラスはとんと聴いたことがなかったというか、聴いた記憶がなかった。初めてその名を耳にしたのは、七六年にメトロポリタン・オペラ・ハウスで行われた、ロバート・ウイルソン演出、P・グラス音楽の舞台劇「海辺のアインシュタイン」の評判が、アメリカから聞こえてきたからだった。広島出身の俺は、アインシュタインと聞くと身体が機械のように反応するらしい。数回のベルリンではカフェ・アインシュタインという前衛バーに入り浸っていたくらいだから――と、閑話休題。
 八二年の年明け、だったと思う。ある日、FM深夜放送から、“フィリップ・グラス”とアナウンサーの声がして、慌ててカセットテープをデッキに入れた。新作アルバム「グラス・ワークス」から「終りのない風景〜1・2」と「月の群島」という曲が流れたのをはっきり憶えている。三曲で二十分以上あっただろう。例え、中座してトイレに立って戻っても同じようなフレーズが繰り返している、その抑揚のないメロディと変化のないリズムが延々と続くと、喜怒哀楽を拒んだ孤独感が高揚してきて、無限の音楽の木立の中に埋もれていく自分を錯覚した。
 同年、P・グラスがゴッドフリー・レジオ監督と映像と音楽だけで取り組んだドキュメンタリー映画『コヤニスカッティ』が製作された。試写を観たフランシス・F・コッポラは感動し、即座に配給を引き受けたが、八四年、日本では六本木WAVEのシネ・ヴィヴァンの単館上映のみだった。だが映画は衝撃的だった。アメリカの大荒野が延々と続き、空撮カメラがそれらを執拗に追う。カット・インされる原爆ときのこ雲、高速道路の車の洪水、地上に降りたカメラが捕らえるのは、せわしく歩く人の洪水とラッシュアワー、ファースト・フードで機械のように働き機械のように食べる人々、古びた高層ビル群が発破で破壊され、巨大な白煙を上げながら脆くも崩れさるシーンに、今や9・11と重ね合せる観客も多々いよう。P・グラスのミニマル音楽は、映像と呼吸するようにビートを屹立させ一定のリズムを繰り返す。そして重い空気を吸い込んだオルガンの呼気が「コヤニスカッティ」の呪文と共に世界を覆った。「コヤニスカッティ」とは、アメリカ先住民ホピ族の言葉で「平衡を失った世界」を意味する。
 『ポワカッティ』(87)は、F・コッポラと共にジョージ・ルーカスも製作に加わった続篇だ。東南アジアやアフリカ、十二ヶ国でロケしたこの作品は、大地に生きる人々と共に、緑の農地や牛や羊、水の恵みに遊ぶ子供たちや頭に荷を乗せた色鮮やかな女たちを、どこの国のどこの人といった説明は一切使わず、ドラマ性を排して淡々と描く。音楽も前作と違い、繰り返すビートも柔らかくフルートをフィーチャーして、民族楽器が、例えばアフリカのバラフォンが軽やかに空に響く。だが、そこに生きる人たちの眼にも訪れる不安。やはりホピ族の言葉で「自己の繁栄のために他者の生命力を消費する存在」を意味する「ポワカッティ」の世界へと変容する科学技術の傲慢が侵略してくる。
 「『コヤニスカッティ』という言葉は、我々が正常だと信じている全てのものが異常であり、真実のモメントは実は虚偽のモメントなのだ、ということを意味している。本質的には問われてこなかった進歩と近代化の世界のことを指している」と言う監督のG・レジオの姿勢は明白だ。青年期から大人にかけて断食、沈黙、祈りの中で過ごしたというG・レジオが、インディアン居住区の施設などの奉仕活動の過程から、青年期、アジアやインドを旅して反西欧の音楽的思想の基盤をつかんだP・グラスと手を組んで、この映像を発想したのは自然発生的な帰結だったろう。さて、テクノロジーの暴走に警告を鳴らす、この二本のハイ・テク映画がやってくる。
 今回、P・グラスが十何年にわたって力を注ぐ、二作品の上映コンサートで来日するのだ。この初来日上映コンサートは、すみだトリフォニーホールにて縦6m、横11mの大スクリーンを特設し、故武満徹の「大ホールで、ものすごく大きなスクリーンでウワーッと大きな音で、イベント的になるほうがいい」との言を全うする。そして当然、フィルムに焼き付けられた音の再現とは、根本的に別の細胞が創り出す音楽であらねばならない。音楽家の竹田賢一が、計らずも「P・グラスが自分の音楽を『聞く』音楽ではなく『体験』する音楽だと語るのも、大音量と反復によって音を分節的に聞く意識を麻痺させ、『内面のスクリーン』で音を感じさせようという意図を表明しているのだろう」と指摘した通り、既に大スクリーンと生演奏アンサンブルが準備されたのだ。後は陶酔と覚醒の反復する感性的衝撃を待つしか手はないのではないか。