Flaneur, Rhum & Pop Culture
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ジャンヌ・モロー観音を遍路する
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.8
 フランスを代表するヌーヴオ・ロマンの作家故マルグリッド・デュラスを、フランスの大女優ジャンヌ・モローが演じる『デュラス 愛の最終章』が上映中だ。一九九六年、八十一歳で死んだデュラスが六十六歳の時、彼女を崇拝して五年間に及んで手紙を書き続けた大学院生のヤン・アンドレアは或る日、デュラスに呼び出され一緒に暮らし始める。なんだ、色狂いの老女の男食いの話か、と思ったらデュラスの掌中に嵌る。最初、ヤンがジャンヌに持ち込んだ手紙の朗読を舞台でやったのがきっかけで、ジャンヌが映画化を働きかけたのだが、十六年間の隷属愛のドキュメントを如何に観るか、ここが作品の評価の分かれ目だ。
 かつての映画少年にとって、邦画なら中学時代の京マチ子、洋画なら十七、八歳頃の『危険な関係』(59 ロジェ・ヴァディム)のジャンヌ・モローが、連綿と続くシルバー・スクリーンの美女群から選ばれたのがわがイタ・セクスアリスに憑依した君だった。『愛人 ラマン』(92 ジャン・ジャック・アノー)以来の拝顔か、否、あの時は後姿と声だった。変貌振りを体験せねば気が済まない、というより、おとしまえは付けなきゃいけない。知的好奇心に満ちた悦楽と性的な欲情に区別をつけないデュラスの世界は、そのままジャンヌの世界でもある。デュラス世界があって、すっかりなり切っている老ジャンヌがいりゃ只々拝跪するか。タイミング良く、友人の音楽ジャーナリストがくれたステファン・オリバの映画音楽ソロ・ピアノ集に、「大木さんが好きな曲が入ってるよ」と彼が言った「インディア・ソング」が入っていた。
 映画『インディア・ソング』(74)はデュラスの原作・監督作品で、三〇年代の植民地カルカッタのフランス大使館を舞台に、大使夫人(故デルフィーヌ・セイリグ)とラホール副領事の倦怠と殺意漂う恋とその死を描いている。映画的現実時間とずれ
て流れるオフのモノローグは、カメラという意識空間からはみ出していて、奇妙な不安と焦燥を煽り、亜熱帯の風に乗って流れる故ダレッシオのタンゴをベースにしたけだるい繰り返しは、夜ごと夜ごとの頽廃的日常の中に観る者を追いやる。オリバの静謐さも捨てがたいし、キップ・ハンラハンの見事なアンサンブルも良いが、やはりここはダレッシオのサントラだろう。
 デュラスが言うねじれたアジアを意味する〈デュラジア〉でいえば、もっと時代を遡る二九年の仏領インドシナ、十五歳半のフランス人少女(ジェーン・マーチ)は身なりの良い華僑青年(レオン・カーファイ)に誘われ、欲情のおもむくままに性の虜になってゆく。
 『愛人 ラマン』もデュラスの自叙伝であり、性の関係が続いた何年か後、最初に会ったメコン河からフランスに向かって船は海に出ていく。「十八歳でわたしは年老いた!??」そう朗読する少女は年老いていて、つまり、老年のデュラスが、つまり、その役をジャンヌが演じている仕掛けになっている。『ベティ・ブルー』の音楽をやったガブリエル・ヤードは、セピアカラー調の美しい旋律でその辺りの異国情緒をくすぐる。
 デュラスの原作でいえば、抑えきれぬ性情や熱い自由を取り込んだ〈狂気の愛〉に向かう『愛の最終章』『愛人 ラマン』『インディア・ソング』の系列を過去に手繰ると、『雨のしのび逢い』(60)になる。日常を引き裂く女の悲鳴がボルドー近くの田舎町に響き、何不自由ない有閑社長夫人(ジャンヌ・モロー)の単調な生活に非日常の感情が湧く。夫の会社の工員(ジャン・ポール・ベルモンド)と密会を重ねる内にモラルの仮面は剥がされ、欲情のほとばしりは遂に全裸の牝犬となって悦楽の叫び声を上げる。ヌーヴォ・ロマン派というデュラスらしさが最も発揮された原作で、この作品で作家的地位を不動にした。ジャンヌはカンヌ主演女優賞を受賞した。原題の『モデラーテ・カンタービレ』は中位の速さで歌うようにという意味だが、テンポが取れず子供はピアノの先生に怒られ、母親(ジャンヌ)は欲情に走り、監督のピーター・ブルックだけが冷徹に大胆な演出をしていたことを思うと、デュラス(脚本も)の魔術は凄いのだ。
 そのデュラスと離れるが、ジャンヌ・モローの別の代表作と思っているのが、フランソワ・トリュフォー監督の『突然炎のごとく』(61)だ。可憐で憎らしい天真爛漫な聖少女をここまで描けるのは、女性礼賛者トリュフォーの女優ジャンヌ・モローに捧げた最大の讃歌だ。繊細で斬新なカメラは、フィルム・ノワールの雄ラウール・クタールだし、加えてトリュフォー映画に欠かせぬジョルジュ・ドルリューの音楽が、軽快なテンポで三人のあぶない躍動を表現している。
 『マドモアゼル』(66)に次いでトニー・リチャードソンが監督したジャンヌ主演、デュラス原作の『ジブラルタルの追想』(67)もあるが、ここでは割愛する。それより、更に過去へと進まねばならない。
 ジャンヌ・モローを世に出したのはルイ・マル監督だ。古典的な愛と官能を描いた『恋人たち』(58)がある。夫や愛人がいながら満たされぬ心に身を焦がす社長夫人(ジャンヌ・モロー)は、ふと車で擦れ違った男を誘う。水車小屋から寝室へと誘う破滅への道行は、月の光を浴びて、バックに流れるブラームスの交響曲の何となまめかしくて犯罪的な美しさに透徹していることか。ルイ・マルが世に出したと言ったこのコンビの前作が俺にとっては一大事なのだ。
 『死刑台のエレベーター』(57)は二十五歳のルイ・マルのデビュー作、そしてジャンヌは、『現金に手を出すな』(54 ジャック・ベッケル)で主役のジャン・ギャバンの相棒のチンピラ情婦などを演じていたが、このヌーヴェルヴァーグを世界中にアピールした作品で、スターへの道を決定的にした。スクリーンに目一杯クローズアップされたジャンヌの濡れた瞳に濡れた唇がいきなり大写しされるオープニング・ショットはショックだった。愛人のモーリス・ロネと電話で殺人の密談をしているのだと判る。“抱いて! あれが済んだらいつものカフェで??”とカメラが少し引くと、マイルス・デイビスの一音が鋭く立ち上がり刺さる。ルイ・マルのサスペンスフルな演出とジャンヌの空虚感溢れる不安をマイルスのアドリブ&ヘロイン音楽が増幅させる。たまたま持っている録音風景ビデオからも、フィルムをスタジオに持ち込んで、画面を観ながら一発アドリブ録りした光景がよく分る。アンリ・ドカエのカメラは平静な眼差しでハードボイルドを決める。ギャング映画ではない極上のフィルム・ノワールは若きルイ・マルの才気だった。
 “愛を出し惜しみできない女”ジャンヌの性格は、デュラスと出会う以前からルイ・マルの二作品によって決定づけられていたともいえる。その愛の渇望へ激しく行動する女性ジャンヌも今年七十五歳を迎える。