Flaneur, Rhum & Pop Culture
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「笑う地球に朝が来る」川田は歌った
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.3
 「二十世紀最後の……」と惜別の情を惹句にした記事が、政治経済、社会風俗、スポーツとあらゆる分野にやたらと目立つ。今世紀に誕生して、幾万という作品を生み落とした映画の記事とて同様だ。そこで、百年の計をベストテンで選ばせている。又は曰く、「無人島に持って行く一本を選べば」と。当欄は映画とその音楽の相関関係で捉えるを主旨としているので、それに従って一本を選べば、うむ『二〇〇一年宇宙の旅』(米68 S・キューブリック)か、否、やっぱり『第三の男』(英49 C・リード)が正鵠を射ているね。モノクロ映像の見事な光と影のカメラ・ワークが、虚無と犯罪、正義と裏切り、友情と軽蔑を、大戦直後の廃墟のウィーンに浮かび上らせ、緩急自在のカラスのチターは、言葉より強く絶妙にフィルムと融合して特級サスペンスを盛り上げている。次はさて日本映画となると、うむ、良心的にいえば『砂の器』(74 野村芳太郎)だな。犯罪を犯した天才作曲家の交響曲「宿命」の初演が始まると同時に、逮捕への警視庁捜査会議も始まり、宿命の父子の世間から拒まれた長い長い道行きが、日本列島の四季と共にカット・バックされる。菅野光亮作曲の曲の長さ分、二十七分に及ぶ圧倒的なリフレインを他に知らない。
 翻って、自分の最初の映画は何かを辿る。美空ひばりの『悲しき口笛』(49 家城巳代治)と『リンゴ園の少女』(52 島耕二)、高峰秀子の『銀座カンカン娘』(49 島耕二)、杉葉子が新子というませた女学生役をやった『青い山脈』(49 今井正)などが記憶にある。疎開先の栃木県の片田舎には映画館など無く、東武線で三、四駅東京寄りの佐野の町まで、父に連れられて観たのが五歳〜七歳の頃だった。当然だが、子供のことを考えて父は映画を選択したのだろう、黒澤や小津は一切観なかった。三益愛子の涙の母子ものは何本か観たがすっかり忘れている。で、前者の映画を今思い出すと、全て歌がついていて、『青い山脈』は、画面の外から音だけ被さっているという意味の劇伴だったかも知れないが、後の三本は画面の中で主人公が現実に歌っていた。いずれにせよ両者共、主題歌を先に流行らせて、時代や人物の背景を充分客に刷り込ませた後、ヒットを目論む手法だった。監督は、会社が歌であればレコード会社と、ドラマ化ならラジオ会社とタイアップ演出を施したその条件を満たす範囲内で演出する他はない。現在でもこのパターンを多く踏襲しているのが現実である。
 これら「歌謡映画」といわれる元祖を探れば、何と無声映画の『船頭小唄』(23 池田義臣)や『籠の鳥』(24 松本英一)に遡る。『船頭小唄』は映画女優の第一人者といわれる栗島すみ子の代表作だ。利根川の冬の川風を受け、舟を漕ぐシーンで監督から声が掛かる。「歌うんだよ、すみちゃん!」といわれて歌えない。「じゃ、青高楼の、でも」といわれ「荒城の月」を歌って、四日間で撮り終えた。かくエピソードも何のその、陰で女弁士が歌う“俺は河原の枯れ芒……”の哀愁はすみ子の口に同調し、映画は大ヒットだった。これら「小唄映画」の一号を生み出した松竹の歌謡路線は健在だった。
 広島に引っ越した翌五三年には、ラジオ放送が始まると女湯が空になると異名を取った『君の名は』(大庭秀雄)が封切られ、主題歌と共に史上空前のヒットを生んだが、恋愛ものは子供の俺には関心外だった。それより、『君の名は』以前から、幼少年をラジオにかじりつかせたドラマ『新諸国物語・笛吹童子』三部作(萩原遼)が五四年、東映で映画化された。“ヒャラリヒャラリコ”と耳ダコの主題歌が流れると、超満員の暗がりで手に汗を握りしめるのだった。次いで『同・紅孔雀』五部作(萩原遼)も大爆発して、中村錦之助と東千代之介は即ち人気スターとなった。これこそ、松竹が五二年に客誘致のために製作開始した「SP」=シスター・ピクチュア、つまり姉妹篇をいう。『新諸国物語』は、それが他社に飛び火した例だったが、各社はこぞって当時の流行歌を、次から次へ松竹を模してSP映画にしていった。何の思慮も志向もなく、映画に歌と歌手をブッ込んだ。――それでも、会社の思いとは別途にSP映画から、小林正樹が、野村芳太郎が、鈴木清順が監督デビューした。鈴木清順は、この「ついで映画」の専門監督故の罹病により、幾つかの〈さかしま名作〉を残している。
 五六年、『太陽の季節』(古川卓巳)の端役で世間の耳目を魅きつけた石原裕次郎が、次作の『狂った果実』(中平康)で衝撃の主役デビューを飾った。主題歌も歌って、新たな歌謡映画の誕生だった。俺はチャンバラ時代劇に惓きてきた小学五年生の夏だった。文芸作品『乳母車』(田坂具隆)では太陽族から一変し、『鷲と鷹』(57 井上梅次)では、ウクレレ片手に主題歌まで歌って女を口説いた後は、滑稽を越えて“通らばリーチ”のあのドラム合戦の『嵐を呼ぶ男』(57 井上梅次)だった。『栄光の都』のパクリだって? そんなこというと、裕次郎映画は何でも、否、日活アクション映画は殆ど模倣してたよ。『望郷』、『地獄特急』、『カサブランカ』、『荒野の七人』、後には『勝手にしやがれ』とあちこちだ。それがお洒落だったということだ。たった一人で日活の救世主となった裕次郎の栄光の傍らで、相変わらずむさぼるように、SP歌謡映画を各社(特に日活)は量産するのだが、五八年をピークに年間観客数十億人(現在では信じられない!)を割って、映画界もグラリと時代の転回点を目前にするのだったが……二十一世紀へ残し伝えるなど、思いも及ばず歌う阿呆に観る阿呆の栄華の時代だった。