Flaneur, Rhum & Pop Culture
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遠き島より流れ寄る「ホレホレ節」
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.2
 俳優坂本長利の一人芝居「土佐源氏」は上演千四十七回を数える。その応援団が発行する季刊冊子があって、今年の年明けに送られてきた号に、俺の演劇時代からの大先輩でもあるその坂本っちゃんが、古希を祝う正月をひとりフィジ島で迎えたエッセイが掲載されていて、それが思いを方々に散らすのだった。「土佐源氏」は、民俗学者の宮本常一が、極道の末に盲目の乞食に身を落した、土佐の檮原の橋の下に住む元馬喰の老人から聞き書きし、「忘れられた日本人」に収録した話だ。
 奇しくも、正月からNHK教育TVで「宮本常一が見た日本」全十二回が放送スタートし、彼の膨大な労作と人となりが初めて一般大衆に公開されたようだった。治者としての眼差しで、民の伝承よりも自らの学問を形成して名を残した主流の柳田国男は、白足袋姿で旅路にくつろぐ官僚的な旅だったのに対して、宮本常一は民との水平の視線を常に揺がしにせず、民家にゲートルをほどいた。亡くなった時、司馬遼太郎は「宮本さん程、日本の山河を切り取った人はいない」といい、「民話」の同人木下順二は「宮本さんの(日本列島が詰っている)脳を残せないものか」と嘆息した。今、傍流の学者として故郷の山口県周防大島に眠るが、この周防大島こそ、昔、大量の移民を出した島なのだ。
 二〇〇〇年の初日の出をフィジ島で迎えた坂本っちゃんの横には、「お父様も南太平洋の孤島フィジ島に出稼ぎに行かれたことが書いてある」宮本常一著「民俗学の旅」が置いてあったというから、師への追慕の旅だったに違いないと思った。師と元馬喰は「土佐源氏」で「ええ百姓ちゅうもんは、石コロでも自分の力で金にかえよる」といわせている。
 一大日系移民の島ハワイには、三世のアキコ・マスダによる「捨て石」と題した創作舞踊劇が、その人々の歴史を語り継いでいる。
 一八八一年、カラカウア王が来日。明治天皇と条約を取り決め、以降移民が始まる。
 八五年、第一回「シティ・オブ・トーキョー号」に九百四十八人、山口県人が三割で、その殆どが周防大島出身。因みに我が広島が二番目に多い。以降九三年迄、官約移民三万人、と記録にある。次いで、政府は写真花嫁を送る奨励策を取った。憧れの楽園ハワイを目指した花嫁が二万人にも及んだのは、写真技術の発達ということもあった。
 その人達を称して、アキコ・マスダ達は〈捨て石〉と呼んでいる。その実話を母国アメリカで九五年に映画化したのが、ハワイ移民三世の日系米人として生まれ育ったカヨ・マタノ・ハッタ監督、脚本による『ピクチャーブライド』だった。
 一八年、写真花嫁としてハワイに渡ったリヨ(工藤夕貴)は十七才。既にアメリカ領になったハワイの港の移民局で夫と対面するが、写真と似ても似つかぬ父ほどの中年男マツジ(アキラ・タカヤマ)だった。馬車は広大な砂糖きび畑を揺り揺られ、着いた所は真っ暗な堀っ立て小屋、想像外の別世界に気絶して倒れるリヨ。移民は砂糖会社のサーバントでポルトガル人は月十ドル、日本男子は月九ドル、女は月六・五ドル、番号で呼ばれ日々十時間の厳しいハナハナ・タイム(労働時間)が続く。映画は後半、遂に逃げ出したリヨが、幻想のダイヤモンド・ヘッドで死んだ仲良しのカナ(タムリン・トミタ)の亡霊に、「リヨ、ダイヤモンド・ヘッドに来たってダイヤなんかないでしょ」と諭され戻る。リヨはその夜、拒絶していたマツジを初めて迎え入れる。翌朝、「ホレホレ節」が歌えるようになったハナハナのリヨの姿があった。ホレホレとは砂糖キビの枯れ葉をむしり取ることで、苦や酷を歌にして憂さを晴らすのだが、身近に起きた冠婚葬祭や猥歌なども即興で歌にしてしまう生活の歌そのものだった。だが映画は、圧倒的に重い史実をなぞったメロドラマに陥ってしまっていた。掻き消されようとしている歴史の流れに棹をさすカヨ・ハッタの思いは良く解るのだが---。勿論、その後の日系人は、第二次大戦のヨーロッパ戦線、太平洋戦線で最前線の四四二部隊に配属されたり、軍役以外は、女性、子供と共に、敵国人収容所へ送られる更に苛烈な生活が待っている訳だが、アラン・パーカー監督の『愛と哀しみの旅路』(米90)やアカデミー賞ドキュメンタリー短篇賞を受賞した日系スティーブン・オカザキ監督の『待ちわびる日々』(米91)などに丁寧に描かれているが、先の舞踏劇「捨て石」には”君の国はアメリカだ!“一世、二世、三世のそれぞれの物語りがあって、それぞれの「ホレホレ節」が劇中歌になっている。
 “日本出るときゃよ ひとりで出たが 今じゃ 子もある孫もある”
バンバイ(そのうちの意)を口癖にする日系人達は、「ホレホレ節」でその都度、アイデンティティの危機を救済してきたのだろう。
 『ピクチャーブライド』から暫く後、「オーワ・メレ・アイランド」というハワイアン・バンドをプロデュースした時、ハワイアンの括りで用意していた俺の後頭部に不意打ちを食わせたのが、「ホレホレ節」だった。そうだった、考えてみりゃハワイアンじゃないか。かと思うと、民謡を生活の中にあるものと捉えて世界を闊歩する異端児伊藤多喜雄も九八年のCD「産土」に収録している。浅利香津代の移民の一人芝居の為に頼まれたのが縁で「ホレホレ節」を入れた多喜雄だが、いち早く映画で歌った工藤夕貴と、今歌の師弟関係になっているということは、一曲の歌が持つ因縁ではないか。そして、もう一つの不思議は、周防大島が故郷の宮本常一は、この「ホレホレ節」に何故言及しなかったのだろう?
 “ハワイハワイとよ 夢見て来たが 流す涙もきびの中”