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絵:黒田征太郎 文:大木雄高
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VOL.17
駅のない          
「七十五セントのブルース」号


ツィゴイネルワイゼン

 一九六四年、上京した当時の東京は、オリンピックを控えて手術台に横たわった患者のように、そこかしこ工事だらけだった。
 そのころ観た蔵原惟繕監督の日活映画「黒い太陽」は、ジャズに対する僕の考え方を新たにさせた。黒人に憧れ、ジャズ・ビートにしびれる主人公の若者は、教育や躾の悪さを、何のてらいもなく押し通して生きている。そして湘南の坊ちゃま、太陽族に牙を剥き、闘争派の学生たちにも罵声を浴びせ、工事中だらけの街中を疾走する。
 そんな映画のオープニングのタイトル・ロールで、いきなりマックス・ローチの怒りほとばしるドラムに、アビー・リンカーンの悲痛なボイスがかぶさった。曲は、アルバム「ブラック・サン」の中の「七五セントのブルース」で、詩は黒人運動の精神的オルガナイザーだった、ラングストン・ヒューズが書いた有名な一遍だった。
 そこで、映画の舞台になった渋谷にあったジャズ・バー「デュエット」を覗いた。映画の曲をあらためて聴くと、今まで体験したジャズと違う刺激が後頭部を襲った。
 三年間、郷里の広島で通っていた「パド」という小さなジャズ・バーのマスターは、海外新譜が出ても広島では手に入らないから、たった一枚を求めに大阪まで出かける人だった。ある日、「ジェリー・マリガンお願いします」とリクエストしたら、「高校生!ジャズはロイクを聴かにゃいけんよ」とビシッと言われた。“ロイク”は“黒”の逆さ言葉で“黒人”のことだが、そのときの僕は「…? …? ロイク?」だった。で、“ロイク”のファンキー・ジャズを聴き、岩国から来たGIたちと脳天気にワイワイ喜んでいた。
 だが「七五セントのブルース」をきっかけに、「そうか!マスターが言っていたロイクはこうだったのか」と一人合点し、ローチ&リンカーンのコンビのさらに主張性が強い「ウイ・インシスト」にはまった。
 人種差別の苦境から逃れて天国で楽しく暮らそうという、ゴスペルを下敷きにしたファンキー・ジャズと、アフロ回帰の戦いとして、たとえ愛を奪われてもこの地で生き抜くという、ジャズ・ブルースの精神は、同じ“ロイク・ジャズ”でも違うのかと、後日学んだ。
 アンチだが、やろうと思えば何でもできた六〇年代風潮の中で、僕にとってジャズが、ファンタジーでなく、現実を見据えるものとして現象した、試行錯誤の始まりだった。

「アサヒグラフ」1998年5月18日号掲載