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緑なき衆生は度し難し
VOL.96

 まだ続く炎天に広がる夏雲と赤い夾竹桃の光景は、悲しい季節八月の遠い縁側の記憶だが、昔、日本の家に縁側があり、雑談、商談、芸道、娯楽と大人も子供も情報交換の場として様々な生活文化を成り立たせた空間があった。端だが見晴らしの良い縁側が現代ではほとんど消えたようだ。家屋事情のせいもあるが、つまり思想としての縁側が消えたと云うことだ。
 思想より感性、宗教より超現象に憧れる現代、つまり自らを決定づける要因が持てないからだが、その癖、“縁側では何ですから”と云われる前に奥に上がりたがる。考えられる高い効率の生産性をキープしてもその文化には顔がない。文化産業に於る作り手と受け手にあるべき関係は無くて、人間が予め調整されているようだ。只あるのは、より豊かに、より大きく、より強くを価値とする競合の論理なのだ。
 競争を排し、「自動車より自転車、夜は星がよく見えるから暗い方がいい」と「価値革命」を唱える加藤周一も「中心より周辺で物はよく見える」らしいが、例えば盲導犬使用者は殆んどのホテルや飲食店で断られ、同性愛のHIV感染者は診察を断られるのを縁側の少数派が見ている瞬間にも、奥座敷の方では、“地球に優しい…”と称して暗躍しているのだ。

(座敷童子)

(1994.7記)