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衣食足りて栄辱を知る
VOL.79

 世紀末時代の今、あちこちで「風景論」が飛びかっている。「風景」とは心の問題だ。時代が風俗を創り、人間がそれを文化へと昇華し、自らの「風景」として定着させる。時代の人間が「風景」を生みだすのならば、'93年の風景とは何か?
 物の見方考え方を決定づけた'60年代、ジャズを耳で視て、目で聴いていた反文化(カウンターカルチャー)で覆われためくるめく全風景が<ズージャ>だった。アドリブだった。
 '93年、皇太子の婚約で報道統制し、表現の自由を自ら規制して一色に染めた(共産国か!)ジャーナリズムが、次は矢鴨を追いかけるヒューマニズムの大安売りをする今、'60年代の価値観、発想、形象が経済的垂れ流しに庇護されながらも花開く―
 だが、「風景」の窓は開かない。<ズージャ>からは程遠い<おジャズ>の景観だから当然か。自家をダンプで壊されても反撃しない国民性が造った泡の経済上に生きる“90年の日本人よ、お前は何処へ行く!”と云われても、無を悟った坐禅士の如く営々と働き続ける。元々熱しやすく醒めやすい人種なのだ。
 G・P・S(グルーバル・ポジショニング・システム)を駆使して湾岸の砂漠で戦争に興じる国の人間よりましと思え。G・P・Sは、戦略地点を教えてはくれても、拠って立つ地=「風景」は示してはくれない。

(達磨管子)

(1993.2記)