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木に竹を接ぐ
VOL.26
 「今は写真の時代だけれど、写真家の時代ではない」と先日、TVである有名写真家が云った。カメラの製造技術の進歩が素人カメラマンを多くしていることを原因の一つに挙げている。

 絵や音楽や詩や、人間なら五体満足でなくても出来るし、やっている。M・デイビスが音楽小僧の多さを嘆いたらどうする?
 あなたの先輩写真家浜谷浩翁は今春、世界最高のマスター・オブ・フォトグラフィ賞を授与されたではないか。

 TV・雑誌サイズのこの写真家のヨタを聞いて、ある女性作家の言葉が浮かんだ。

 「日本近代化は、“木に竹を接ぐ”歩みを続け、その無理が教育の場に端的に現れ、競争の自由も、経済という数量的な基準に偏りがちな風潮が出て来た」と。

 両親殺しの中学生の悲劇を云ってるのだが、それは高校生かも大学生かも写真家になれなかった写真家かもしれない。

 無理してナショナルや時代精神を捜しても、風潮の陥穽に嵌るだけのある島国の話、“創造はやってくるもの”を感知することは社会性からはずれること。

 時代や人種あらゆる境を越えて=はみだして、例えば移動祝祭集団「サン・ラ・アーケストラ」は地球の始源の音で門附けをする。

[心を接ぐセラミック]

(1988.9.1記)