Flaneur, Rhum & Pop Culture
人は数珠で108個繋がっているということ
[ZIPANGU NEWS vol.106]より
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 パリ・エルサレム会修道士で、れっきとした日本人だが、ダミアン原田という神学と音楽に帰依した人の絵画展に今秋行った。ダミアン原田は、下北沢の隣町の池ノ上にある、ヤマテピアノの竹越浩一から紹介されたのだが、古楽器シター奏者として紹介された。その夜、シター演奏もあったが画家の顔も持っていたとは知らなかった。そこで偶然、能楽囃子方・大鼓奏者の大倉正之助と会って、相当久し振りだったのでいろいろなことが蘇ってきた。
 1991年の8月上旬、韓国の打楽器奏者・故金大煥を下北沢の拙宅に泊めていた。「ロマーニッシェス・カフェ」のライブ出演の都合でそうしていた。金大煥は韓国のポップ音楽の頂点を築いた人なのに、フリー・ミュージックを自由に生きる哲人パーカッショニストに変身していて、ひとつの米粒に般若心経283文字を微細彫刻する超技の書家の人でもあった。60歳近い金大煥は玩具箱のような下北沢の街を6歳のわが娘に引張り回されて子供みたいに喜色満面だった。その拙宅へ「今晩からわが家へ金さんを引き取ります」と言って来宅したのが大倉正之助だった。3週間ほど前に会ったばかりだったらしいが、余程気が合ったのだろう。部屋に通すや、彼が「この絵、黒田征太郎さん?」と、金大煥が自室から出てこないうちからいきなり切り出した。「そうだけど何か?」と言って口籠っていると、「黒田さんとついこの前、サンフランシスコの画廊でライブを一緒にやったばっかりなんですよ」と言った。ラフォーレ原宿のオーナーが経営していた何とかという画廊だったが名前は失念した。「じゃ、ネイティブ・アメリカンの酋長で、デニス・バンクスも一緒だったよね」と俺が言うと、「どうして知ってるんですか?」と、話がポンポン進んでしまって、当時彼が住んでいた大森の家まで同行することになった。家といってもそこは寺澤潤世という坊さんの広大な庵で、諸外国人が勝手に集まるヒッピーのミニ・コンミューンのようなところだった。彼は早速ビデオに収録してあったシスコのギャラリーのライブ映像を俺に観せてくれた。大倉正之助の大鼓と、絵の具をキャンバスにぶちまける黒田征太郎、それに種族の平太鼓を打ち鳴らすデニス・バンクスの共演ライブ映像だった。
 最初にデニス・バンクスに会ったのは,1990年3月14日、確か虎ノ門にあった森ビルのライブ・ステージだった。出演は黒田征太郎とデニス・バンクス、86年から「ロマーニッシェス・カフェ」が始めたライブ・コンセプトの相談相手でもあり、金大煥にダブル・マレットを教えた打楽器奏者の高田みどりだった。話はそれるが、「日本人は女でもそんな技を持っているのか」と驚嘆し発奮した金大煥は、片手3本両手6本のトリプル・マレットを習得するのだった。そんなきっかけがあって、8ヶ月後の11月22日、デニス・バンクスのライブ・パーティを「ロマーニッシェス・カフェ」でやることになった。
 ミネソタ州北部のラコタ(スー)族の子として育ったデニスは、50年代に米軍空軍兵として横田基地に配属されていたが、1968年にAIM(アメリカン・インディアン運動)を立ち上げた。1890年に第七騎兵隊に全滅された<ウンデド・ニーの虐殺>以来、組織抵抗は死滅したかに見えていたが、83年後の1972年2月、デニスらラコタ族戦士たちは「死ぬには良き日だ」と声掛けあい、極寒のサウスダコタで白人騎兵隊に戦いを挑んだ<ウンデド・ニー占拠、71日間の自決と独立>のニュースは世界を駆け回り、AIMの運動は知られることとなった。1988年8月5日、広島に行くためにデニスと20人のインディアン走者はアメリカ大陸5600キロを縦断した後やって来た。広島から日本の走者と合流して、伊方原発、浜岡原発、東海村、六ヶ所村を越した後、幌延核燃料廃棄物処理場でアイヌの儀式と交感した。<聖なる走り>だった。
 さて11月22日当夜、<聖なる煙草>に火が付けられ、デニスの祈りの言葉とともにインディアン太鼓が、空気をゆっくりと裂くように鳴り始めると、村上ポンタのドラムが殊の外緊張した構えを見せて、デニスに呼応していった。俺自身後にも先にも、これほど身を強ばらせたライブ企画は無い。
 ここに書いた金大煥、黒田征太郎、デニス・バンクス、大倉正之助、ついでに俺が、被爆50周年の1995年8月6日に偶然広島で出くわす嘘のような出来事があったのだが、それは又いつか書くことにする。