Flaneur, Rhum & Pop Culture
幻に消えた東ベルリンに路地
[ZIPANGU NEWS vol.102]より
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 1990年7月22日のベルリン3日目は日曜日だった。前夜の『ザ・ウオール』30万人コンサートの疲れと空腹で、カント・ストラッセのイタリアンの店から、宿泊先のメッセナーにある高瀬アキ邸に帰宅したのが朝の4時30分だったので、目覚めても気怠い昼だった。自宅で軽い昼食をとってから散歩に出た。
 三人で裏道を行くとティアガルデンの一角でフリーマーケットをやっていた。映画『サンスーシの女』が最後だった俺の好きな女優ロミー・シュナイダーの写真集を二束三文で買って、しつこく凝ったクラフト作品を楽しみ、アイスキャンディをペロペロなめながら歩くと、動物園に出た。アキと別れて珍道中の相手石田えりとそこらのベンチに座って、一昨日はクーダム・ストラッセにあるジャズ・ライブハウスのクワジモドでトニー・ウイリアムスを聴きに行った時、紹介されたオーナーから「一介の店がベルリン市のファンドから年間予算の補助を受けている」と聞いた時の、日独の文化度のあり方にショックを受けたこと、昨夜は何と言っても歴史上のコンサートに立ち会ったことなど、だらだらと思い出し話に時間が過ぎて行ったが、異邦人であることがそう思わせるのか、えりが今までの道を振り返りながら、今が女優のターニング・ポイントのようなことを喋り始めて俺が調子を合わせていると、檻の中から「あいつ等何しにベルリンまで来て話してるんだ」と、キリンが俺たちを観てそう言っているようだった。そうだ!旧東ベルリンに行こうと思いついた。
 動物園に隣接するZOO駅(ツオー駅)は日本で言えば東京駅だが、比べると貧弱極まりないが、ベルリンと大都市を結ぶ長距離列車は皆ここから出発している。壁のあった88年のZOO駅体験の方が鮮烈ではあったが、フレッド・ジンネマンの映画『ジュリア』がすぐ浮かんだ。リリアン・ヘルマンの回顧録を原作にしたこの映画は、「反ナチの運動資金を東方に運搬してくれ」と戦士で親友のジュリアに頼まれたリリアン役のジェーン・ホンダが、ベルリンに呼び出されるシーンがあって、勿論駅はこのZOO駅だった。ジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーブが令嬢だった身分を捨てて、苛酷で非情な女闘士として命を捨てるその寄せ付けない毅然さに惚れた。思っただけでゾクゾクきた。今そこにいるんだという錯覚が楽しい。「今から映画のようにリリアンになって旧東ベルリンに行こう」とえりをその気にさせる。その気といってもZOO駅からSバーン(環状線)に乗れば、物語にならないほどあっという間に旧東ドイツのフリードリヒ・ストラッセ駅に着いてしまう。早まるではないと、かって機銃とソヴィエト兵士とブレジネフとホーネッカーに監視されていた東ベルリンを、1日24時間分だけ知っている俺は方針転換した。
 市の中心部にある動物園からは(動物園が街の中心に有るのはどうにも面白い)何処でも行ける。両替を済ませると、ピカソがお馴染みのパリス・カフェには初日に行ったから、ベルリンと言えばケンペンスキー・ホテルのバーに行って旨いカクテルを飲むしかないだろう。旧東に行っても何も無いからだった。壁が壊れて8ヶ月やそこらで2年前に見たおぞましい光景が変わっているとは思えなかった。ケンペンスキー・ホテルの居心地の良さに東ベルリン探訪を棚上げすると今度は空腹を憶え、アキに紹介された中華料理店に行くしかなかった。10時を回ってやっと夜は更けていった。
 翌ベルリン4日目、昨夕は難癖つけてやめた旧東ベルリンに勿論行った。Sバーンをフリードリッヒ・ストラッセ駅で降りる。当然検問はない。ウンター・デン・リンデンをブランデンブルグ門の方へ歩くと、何てことだ、気の抜けたビールと言うか、何の感興も起こさない明るく変貌した広がりは!日本が建てた貿易センタービルには日本企業が入っていて、色とりどりの新規カフェが並ぶ。東には以前から威厳を誇る国立オペラ劇場やベルガモン博物館など古典的建築物が圧倒的存在感を誇っていて、機銃を持った兵士は消えたし、そこかしこを通行禁止していた紅白の遮断機が無いのは良いが、この奇妙さをどう感じれば良いのだろうか。同じく消えた検問所チェックポイント・チャーリーを南に行き、Uバーン(地下鉄)でトルコ移民の街クロイツブルグに向かった。
 “壁があった方が面白かった”?「ロマーニッシェス・カフェ」でベルリーナーのダンサー、メリッサが俺に言った言葉を思い出していた。